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尾張西枇杷島まつり

05/01/12更新

 西枇杷島は,江戸時代に名古屋城下の台所「小田井の市」の名で知られる、尾張平野の農産物を集め名古屋城下に供給する青物市場がありました.
 名古屋の西の玄関口である枇杷島橋から,美濃路を西に広がった町並みに,橋詰神社・六軒神社・松原神社があります.
 これら須佐之男命を祀る天王社の祭礼に山車が登場するのは,享和2年(1802)のことです.山車は,現在の橋詰町・問屋町・西六軒町で,当時は祭礼山車に関して尾張藩の厳しい規制があったようで、そのため許されたのは神社に山車を飾る事だけで,曳くことが出来るようになるのは6年後の文化5年(1808)まで待たねばなりませんでした.
 同様に,からくり人形を飾ることが出来たのは文化9年(1812).それを動かすことが許されたのはその翌年のことでした.
 当時の様子は高力猿猴庵の「猿猴庵日記」享和2年(1802)6月に次のように書かれています.
『西枇杷島六軒町市神祭、当年より車初まる。但し社前に錺るのみ。引く事は当年は先づ相見合わせ之筈。御役所より指図有之由。名古屋四月の御祭礼の古車古幕等を求め用ゆといふ。人形を上ぐる事は不済とぞ。』
名古屋城下東照宮祭の古い山車や幕を買い求め山車祭りが始まったが、当初は山車を曳くことは出来ず、人形を載せる事も許可されなかったようです.
また文化9年(1812)6月には
『枇杷島祭車人形上ぐる事、当年より御免、ただしからくりは未成。』
10年後にやっと、人形を載せる事は許可されたのに、からくりの操作はまだ許されなかったようで、翌年にやっとからくりを動かせるようになりました.
 こうして始まった西枇杷島の天王祭は,東六軒町が文化2年(1805)に,明治4年(1871)には杁西町(二ツ杁神明社)が新たに山車を建造し参加するようになった事で,現在の5台の山車が揃う祭りとなりました.
 山車はすべて名古屋型で,どの山車も贅を尽くした豪華なものです.
山車の詳細
橋詰町
王義之車
おうぎししゃ
問屋町
頼朝車
よりともしゃ
東六軒町
泰亨車
たいこうしゃ
西六軒町
紅塵車
こうじんしゃ
杁西町
頼光車

らいこうしゃ
山車幕とからくり からくり人形 からくり人形 山車幕とからくり 山車幕とからくり
山車彫刻 山車幕 山車幕と彫刻    

曲場
山車の前方を持ち上げ方向転換する事を西枇杷島では曲場(まえば)といいます.調子の早い「車切」囃子で行われる曲場は楫方の腕の見せ所で、見所の一つになっています.
曲場
五年に1度の勢揃い
例年、橋詰町・問屋町と東・西六軒町、杁西町は東海道線の高架ガードで分断されたまま山車曳行されますが、町政周年記念の年には5台揃って祭りが行われます.
王義之車と頼朝車のガード通過
空木立
かつて尾張地方の山車は、祭礼前に組み立てが行われ、祭礼後に再び解体し保管されていました.(現在は組み立てたまま保管する山車蔵が設けられている例が多い)
当枇杷島では名古屋型ではほとんど見られなくなった山車の組上げと解体が今なお行われています.
山車の組上げ


橋詰神社

東六軒町六軒神社

杁西町神明社



屋根神様

参考資料:「西枇杷島町史」
       「西枇杷島由緒あるき」
       「西枇の文化財・西枇杷島の山車」
       「西枇杷島まつり山車二〇〇年」
       他
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