尾張の山車まつりへ [三河の山車館][挙母祭り]

挙母祭り  

05-01-15更新

 豊田市は県下2番目の面積を有し,トヨタ自動車の拠点として,全国に名をはせます,自動車産業の発展を誓い,昭和31年豊田市と名を変えた挙母市ですが,なかでも中心地である旧挙母地区は江戸時代,挙母城の城下町として栄えました.
 その挙母神社の祭礼である挙母祭りは,8台の山車が曳き出されるという,この三河地方でも有数の山車祭りです.
 辻々で紙吹雪を撒き曳き廻される山車は,いずれも豪華な山車幕や立川流や瀬川の彫刻で飾られています.

山車の紹介

樹木地区
本町 東町 南町
山車彫刻 山車彫刻 山車彫刻

下町地区
中町 神明町 竹生町 西町 喜多町
山車彫刻 山車彫刻 山車彫刻 山車彫刻 山車彫刻

(宮前町)

挙母祭りと山車の歴史
祭りの起源について,記録に見えるのは,寛永7年(1630)に『飾り車五輌と竹生町の傘鉾,それに南町の獅子が出』とあるのが最初です.
その後,寛延3年(1750)には藩主の命により,南町が飾り車に,また,安永7年(1727)に北町(現喜多町)が飾り車を出し,現在の8町内が揃いました.
この飾り車がどのような車であったかは,定かではありませんが,文化・文政を経て,幕末から明治初期に現在の山車は完成したようです.
挙母城の移転
これまで幾度も城の水害に業を煮やして来た挙母城が,天明2年(1782)下町から樹木台の童子山に移転したことから,祭礼も変更を余儀なくされることとなりました.
このとき,東町,南町,本町の3町は新しい城の大手門に移り住み,新たに城下町を形勢することになったため,下町に残った5町と分かれることになりました.
これは現在,試楽祭の樹木地区の3町曳きと,下町地区の5町曳きに分離されていることに名残が見られます.(本楽祭の奉納では,8台の山車が挙母神社に一同に揃います)
山車の特徴
挙母の山車は次のような特徴があり挙母型と分類されます.
名古屋型,知多型等のような前後に伸びた梶棒ではなく,後部に湾曲した梶棒が取り付けられています
前部がなく,後部だけに伸びる楫棒は,知立,刈谷,大府市など西三河の山車で見られます.
山車の前部には霞幕と呼ばれる幕が飾られます.
江戸時代には山車前に舞台を設け,子供による歌舞伎狂言が演じられたといいます.その名残でしょうか.
山車前部の下山(前山)には,脇障子はなく御簾の前に太い注連縄が飾られます.
上山は,6本柱で,後ろ半分には襖を巡らします.(西三河の山車の多くが,この特徴を有します)
 特に東町の山車の襖は,挙母藩主内藤政苗拝領と伝えられ,張月礁の作です.


参考資料:
「挙母祭りと山車」豊田市教育委員会
「挙母祭りパンフレット」
「瀬川治助木彫の世界」水野耕嗣
「立川流の山車と彫刻」水野耕嗣
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