名古屋市中村区「花車神明社祭」
戦後になってオフィスビルや高層住宅が建ち並び,車や人が行き交うこの「名駅5丁目」界隈ですが,一歩足を踏み入れるとそこは別世界.古きよき時代の不思議空間が現れます.
その一角に緑に囲まれた花車神明社があります.秋の祭礼には民家の軒をかすめ,そしてビルの谷間を,古い伝統を伝える名駅5丁目の 紅葉狩車(旧上花車町と小鳥町)、二福神車(旧下花車町)そして、 名駅南1丁目から唐子車(旧内屋敷町)の3輌の山車がそれぞれ趣向を凝らしたからくり人形を乗せて町々を練り歩きます.
見舞車と祭りの歴史
花車神明社に曳き出される紅葉狩車、二福神車、唐子車はいわゆる名古屋型の山車で、その由来から見舞車(みまいぐるま)と呼ばれます.
見舞車
名古屋城内にあった三の丸天王社の祭礼に車楽(だんじり=大型の山車)が2輌曳き出されていました.その車楽に対する献灯車として宵祭りに参加したのが見舞車といわれる山車で, 祭り好きで有名な尾張10代藩主斉朝公が「胡蝶」の人形山車を寄進し、車ノ町が拝領のかたちでお守りした小型の山車が見舞車の起源とされています.
文化・文政時代に始まり天保年間以後になると、上記車ノ町や益屋町、近隣の那古野村の新道、小伝馬町、郷、万松寺領から5輛、広井村から9輌(下記参照)の合わせて16輌もの見舞車が提灯を灯し車楽の飾られる片端筋に繰り出したといいます.(名古屋祭・伊勢門水著)
また水野正信著の青窓紀聞には車ノ町と益屋町そして巾下から12輌、広井村から10輌の計24輌であったとも書かれています.
しかし、明治維新後の明治9年になると三之丸天王社が名古屋城外の茶屋町に遷座され(現那古野神社)、尾張藩の庇護がなくなった祭礼は衰退する一途を辿ります.
そのため、これら多くの見舞車も三の丸天王祭に参加することもなくなり、各々地元の祭礼に曳かれるようになります.
花車の山車もこの頃から6月の地元天王社(位置不明)の祭礼に参加することになったようです.
明治維新になって車楽への献灯という創建時の目的のなくなった山車はよそへ売られ、あるいは火事で消失して減っていきます.特に太平洋戦争の空襲では東照宮祭や若宮祭の山車など名古屋市内中心部の山車は壊滅的といってよいほどの被害を受けました.
見舞車もその例外ではなく、多くの山車を戦火で失いました.
かつて広井村にあった9輌の見舞車のうち奇跡的に残った紅葉狩車、二福神車、唐子車の3輌の山車.
戦後休止していた3輌の山車は、昭和29年から地元の氏神にあたる神明社の祭礼に曳くようになりました.
旧広井村見舞車一覧表
山車名 | 旧町名 | 備考 |
---|---|---|
紅葉狩車 | 上花車町 | 当地区に現存 |
二福神車 | 下花車 | 当地区に現存 |
唐子車 | 内屋敷 | 当地区に現存 |
神功皇后車 | 新屋敷 | 新屋敷は現在の名古屋駅のあたりで,駅建設のため町自体が消滅したため,東区筒井町に買い取られて現存.(筒井町「神皇車」) |
弁天車 | 戸田道 | 太平洋戦争の空襲で焼失 |
胡蝶車 | 祢宜町 | 明治20年頃焼失 |
神楽車 | 古江 | 明治20年頃焼失 |
張良車 | 中之切 | 明治中期に売却され永らく所在不明だったが,常滑市西ノ口に現存していたことが近年判明.西之口「雷神車」 |
人形車 | 祢宜町 | 所在不明 |
山車の詳細
紅葉狩車 | 二福神車 | 唐子車 |
中村区名駅5丁目 | 中村区名駅5丁目 | 中村区名駅南1丁目 |
旧上花車町 | 旧下花車町 | 旧内屋敷町 |
−− | 天保7年(1836) | 天保12年(1841) |
紅葉狩車のからくり | 二福神車のからくり | 唐子車のからくり |
まつり紀行 | ||
平成19年名古屋まつり | 平成19年神明社祭 | 平成19年那古野神社例大祭 |
平成18年名古屋まつり | 平成18年神明社祭 | 平成18年那古野神社例大祭 |
花車神明社 |
白龍神社前 |
名古屋まつりに向かう(袋町通) |
錦通り |
特別曳行3輛の山車は氏子町内だけでなく、かつて縁のあった地区や祭り(山車)の魅力を知ってもらうために各地を曳行します. |
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中区の那古野神社には名古屋まつり参加の途中に立ち寄ります. |
柳里神社 |
四間道曳行 |
アーケードの円頓寺商店街です.途中津島神社や金比羅神社等でからくりを奉納します. |
宵祭りに二福神車が学区の新明小学校まで曳行してからくりを行います. |
名古屋まつり山車揃〜市役所前 |
「名古屋市山車調査報告書1・5・6」名古屋市教育委員会発行
「名古屋の文化財下巻」名古屋市教育委員会発行
「山車」修理完成記念 二福神車文化財保護会
名古屋まつりパンフレット他