[尾張の山車館]−[那古野神社例大祭] | |
06/01/13更新
名古屋市中区丸の内に東照宮と接し鎮座する那古野神社(なごやじんじゃ)の祭礼は毎年7月15・16日に行われます. かつては東照宮祭、若宮祭とともに名古屋の山車祭りに多大な影響を与えた由緒ある祭礼でしたが、現在は境内に飾られる車楽1輌に僅かに往時の面影を残します. 亀尾天王社から三之丸天王社そして那古野神社に 那古野神社の前身である亀尾天王社の創建は延喜11年(911)と伝えられ、天文元年(1532)の合戦で焼かれた社殿を天文8年(1540)織田信秀(信長の父)により再建されたという由緒が残されています. 名古屋城築城(1610)後に郭内三之丸の一角に東照宮と並び鎮座したため、三之丸天王社と呼ばれ名古屋城の総鎮守そして城下名古屋の氏神とされてきました. (隣接していた若宮八幡社は築城の際に神占により現在地に遷座されたといいます.) 明治維新の際には須佐之男神社と改称され,明治9年城内に名古屋鎮台が設置されたため東照宮とともに旧藩校である明倫明倫堂跡地の現在地に移転.明治32年現在の那古野神社と改称されました.
三之丸天王祭 車楽
七代尾張藩主徳川宗春とともに祭り好きな殿様として有名な十代藩主斎朝公が,車之町に胡蝶の舞の人形を据えた小車を与えたのが見舞車の起源とされまています. 最盛期には天王氏子の車之町,益屋町,名古屋村,広井村,戸田道から16輛もの見舞車(下記表参照)が曳き出されたといわれます. この見舞車も,明治維新で氏子区域の変更や祭礼形態の変更があったため,よそへ売られたり自町の祭りに曳かれるようになり,那古野神社の祭礼に参加することはなくなりました. 現在名古屋市内に残る見舞車は中村区の紅葉狩車・二福神車・唐子車と東区の神皇車の4輌です. |
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見舞車一覧 伊勢門水著の「なごやまつり」明治43年より抜粋(一部修正) | |||
旧広井村 | 紅葉狩車 | 上花車 | 名古屋市中村区に現存(花車神明社祭) |
二福神車 | 下花車 | 名古屋市中村区に現存(花車神明社祭) | |
唐子車 | 内屋敷 | 名古屋市中村区に現存(花車神明社祭) | |
神功皇后車 | 新屋敷 | 新屋敷は現在のJR名古屋駅の敷地にあたり町自体が消滅したため, 東区筒井町に買い取られて現存(筒井天王祭) |
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弁天車 | 戸田道 | 太平洋戦争の空襲で焼失 | |
胡蝶車 | 祢宜町 | 明治20年頃焼失 | |
神楽車 | 古江 | 明治年間に余所に売却.所在不明 | |
張良車 | 中之切 | 常滑市西ノ口の雷神車として現存(西之口神明社祭礼) | |
人形車 | 祢宜町 | 所在不明 | |
旧名古屋村 | 翁車 | 新道 | 太平洋戦争の空襲で焼失 |
殺生石車 | 新道 | 太平洋戦争の空襲で焼失 | |
散手車 | 郷 | 太平洋戦争の空襲で焼失 | |
湯取車 | 小伝馬町 | 太平洋戦争の空襲で焼失 | |
浦島車 | 万松寺領 | 美濃に現存(美濃まつり) | |
和布刈車 | 車ノ町 | 太平洋戦争の空襲で焼失 | |
靱猿車 | 益屋町 | 明治初年美濃へ売却(美濃まつり) |
明治25年から山車祭りに替わり神輿が登場しました.赤いふんどしの担ぎ手によって那古野神社から若宮八幡社まで巡行し例大祭の名物ともなっています. | |
参考資料:「名古屋祭」伊勢門水著・ 「NAGOYA発」名古屋市 「名古屋市山車調査報告書」 尾張年中行事絵抄 |
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