名古屋まつり山車揃

09-07-18更新

名古屋まつりは昭和29年(1955)に愛知県・名古屋市・名古屋商工会議所の共催で開催された「名古屋商工まつり」がその始まりです.
翌年から「名古屋まつり」と名を変えて、毎年開催されることになり、現在では名古屋最大のイベントとなっています.その祭りのメインとなるのが、700人を越えるという華やかな織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の「郷土英傑行列」で 沿道は多くの観客で埋め尽くされます.

ここで紹介するのは「山車揃(だしぞろえ)」です.山車揃は名古屋市指定文化財の山車9輛(王羲之車は祭囃子が無形民俗文化財指定)が市役所前に曳き揃えられ、 からくり人形を披露した後に、「郷土英傑行列」パレードの先陣を切って栄交差点まで曳行されるものです.
このように、普段は各地区の祭礼で別々にしか見ることのできない9輛の山車が一堂に会するのが「山車揃」で、曳き出される山車の多くは、 かつての名古屋三大祭りであった「東照宮祭」「若宮祭」「三の丸天王祭」の祭礼にゆかりのある伝統の山車です.

参加する山車は、東区の出来町筒井町から5輛、中区の若宮から1輛、中村区名駅から3輛で、早朝に自町を出発し、 各地区毎に名古屋城近くの官庁街まで曳かれます.その後各車は市役所に整列してからくり人形を披露し、南大津通りを栄交差点までパレードを行います.
昭和29年の商工まつりには、名古屋市有形文化財指定の8輌が参加、翌年の第1回の山車揃には文化財指定8輌と 中川区牛立1輌、 戸田の山車5輌、合計14輌が曳き揃えられました.
名古屋まつりと山車揃、いずれもその成り立ちから判るとおり神事色はありませんが、当初は栄のテレビ塔南に熱田神宮のお旅所が設けられて、熱田神宮から神輿渡御が行われていました.

■祭礼日
10月第3日曜日 (平成21年は10月第1日曜日)
■交通
名古屋市営地下鉄・名城線「市役所」、「栄」 臨時駐車場なし
■見所
名古屋市役所前の山車整列とからくり人形披露
 
市役所〜栄交差点間の山車曳行
 
栄交差点のからくり披露と山車転回

■山車揃出場の山車

所在地 名古屋市中区 名古屋市中村区
祭礼名 若宮祭 花車神明社祭
山車名 福禄寿車 紅葉狩車 二福神車 唐子車
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山車揃詳細 山車揃詳細 山車揃詳細 山車揃詳細
建造年 延宝4年(1676) 文政年間(1818-1830) 文政年間(1818-1830) 文政年間(1818-1830)
由緒 若宮祭祭礼車 旧三之丸天王祭見舞車 旧三之丸天王祭見舞車 旧三之丸天王祭見舞車


名古屋市東区 名古屋市東区
出来町天王祭 筒井町天王祭
東之切「王羲之車」 中之切「河水車」 西之切「鹿子神車」 湯取車 神皇車
山車揃詳細 山車揃詳細 山車揃詳細 山車揃詳細 山車揃詳細
昭和29年(1954) 延宝2年(1674) 延宝2年(1674) 万治元年(1658) 文政元年(1818)
新造 旧若宮祭祭礼車 旧若宮祭祭礼車 旧東照宮祭礼車 旧三之丸天王祭見舞車

■山車揃会場までの道程

東区の山車は、建中寺前で合流した筒井町の湯取車と神皇車は、同じく出来町通りを曳かれて来た出来町の3輛の山車と赤塚交差点で合流します.
5輛になった東区の山車は、出来町通りを白壁、清水口と西下し市役所西の待機場所に到着します.古出来町から約3Km、筒井町から約2.8Km
中区の福禄寿車は南大津通を北上し、待機場所の官庁街へ.2.6Km
中村区の3輛は、町内を出発して桜通、長者町通りを経て見舞車ゆかりの那古野神社(なごやじんじゃ)に立ち寄り、からくりの奉納を行ってから待機場所に向かいます.曳行距離2.6Km
→順路・帰路の詳細
→山車待機場所の詳細

■山車揃とパレード




栄交差点

官庁街の待機場所から山車は順次1輛ずつ市役所前に向かいます.市役所に着いた山車は半八重(270°回転)、本八重(540°回転)などで回転させながら山車を正面に向けて整列します.
山車はここで二つの組に分かれ、先頭の組はからくりを行わず山車を南に向けて、栄方面に曳き出されます.
→市役所前山車揃詳細

先に栄交差点に到着した山車は、交差点の各角に山車を向けからくりを披露します.からくり終了後は、一輛ずつ順次交差点中央で山車を回転させたのち町内に戻ります.
一方、市役所に残った組は、その場でからくりを披露し、栄交差点を経由して帰町となります.
※前半・後半の組は東区5輛と福禄寿車+中村区3輛で編成され、隔年毎に交代します.
→市役所〜栄交差点詳細

東区の5輛の山車は帰路途中休憩を挟んで、建中寺公園で行われている「なごやかまつり・ひがし」に参加します.建中寺山門前に並んだ5輛が順次からくりを披露します.

※詳細は各年度別のまつり紀行をご覧下さい.

福禄寿車紅葉狩車二福神車唐子車王羲之車河水車鹿子神車湯取車河水車

■名古屋祭

江戸時代から名古屋(城下)では東照宮、若宮八幡、三の丸天王社の祭礼を名古屋三大祭りと呼び、いずれも山車の曳かれる祭礼として多くの人で賑わいました.
なかでも東照宮祭(名古屋東照宮の例祭)は尾張藩を挙げての祭礼で、その規模も大きく城下の各町から出される多くの練り物や、著名な「橋弁慶車」など9輌の山車が登場する名古屋最大の祭礼でした.
戦前までは名古屋祭といえば、この東照宮の祭礼を指しており、現在の名古屋まつりで行われる山車揃はその名残といわれます.

→名古屋三大祭り詳細
→名古屋三大祭りの山車

■伊勢門水の名古屋祭

「名古屋祭」という本が明治43年(1910)に伊勢門水によって出版されています.(昭和55年に復刻版出版)
その内容は、前述の東照宮祭、若宮祭、天王祭を中心に、名古屋及びその周辺の祭りに関して、その歴史や逸話が記述されています.
「自らお祭り調査」と称し祭礼を詳細に書き留めた、いわば「祭礼調査報告書」でもあり、今は無き名古屋の山車の面影を知ることの出来る貴重な資料でもあります.
門水が描いた挿絵も多く掲載されており、名古屋の山車祭り・名古屋型の山車を知る上で「必携の書」、「バイブル」ともいえる書籍です.

伊勢門水(1859〜1932)

本名を水野宇右衛門(七代目)といい、家業は旗商.「水野宇右衛門」を「水の上(の)門」つまり「門水」と洒落て、屋号が「伊勢屋」であることから、伊勢門水と号した.
明治から大正にかけての名古屋を代表する文化人で粋人だった伊勢門水.10歳の頃より狂言を習い、狂言画、能画、陶器の絵付、狂歌など多彩な才能を発揮し、 新作狂言、長唄・常磐津の脚本なども手がけたという希代の粋人・風流人で、今日もその作品は多く残っている.
また文筆にも優れ、「名古屋祭」の他「末広町話」などの著書がある.

参考資料: