■東照宮祭
東照宮
尾張名所図会より「橋弁慶車」
東照宮は初代尾張藩主徳川義直(家康の第九子)が父家康の三回忌の翌年、元和4年(1618年)に名古屋城三之丸の亀尾天王社(三の丸天王社=現在の那古野神社)に隣接して東照宮を勧請したものです.
東照宮祭の山車創建は、元和5年(1619)に大八車に西行桜の人形を乗せて出したのが始まりとされ、宝永4年(1707)までに9輌の山車が揃いました.
祭りを奨励した七代藩主宗春や、祭り好きな十代藩主斉朝らの影響により、山車やからくり人形、装飾品は幾度も改造されて山車は豪華になります.
明治維新や名古屋城内から現在地へ遷座、などの変遷を経て続けられてきた東照宮祭ですが、昭和20年(1945)の空襲で社殿や全ての山車を焼失して山車祭りの終焉を迎えます.
現在の東照宮祭は毎年4月16日と17日に行われており、舞楽神事など一部を残すのみで残念ながらかつての面影はありません.
上述のように現存する山車はありませんが、唯一桑名町の先代湯取神子車が譲渡先の東区筒井町に伝えられており、筒井町天王祭と名古屋まつり山車揃に「湯取車」として参加しています.
→旧東照宮祭礼車一覧
祭礼日:4月16・17日
■若宮祭
若宮八幡社
若宮八幡社は名古屋市栄三丁目に鎮座する名古屋の総鎮守です.当初は三の丸天王社とともに名古屋城内三の丸付近に鎮座していましたが、名古屋城築城に合わせて現在地に遷座したものです.
若宮八幡社の例祭「若宮祭」は寛文11年(1671)に傘鉾を出したのが始まりとされ、その3年後の延宝2年(1674)には末広町「黒船車」など5輌の山車が登場します.
更に延宝4年には、現存する「福禄寿車(ふくろくじゅしゃ)」など2輌が参加し7輌の山車が揃うことになりました.
後述の「天王祭」と同一日の開催で二つの祭りを総称して「祇園祭り」と呼ばれていました.
昭和20年(1945)の空襲で東照宮祭と同様に本殿とともに氏子町内の大半が焼失し、山車は4輌を失うことになりました.更に戦後になって残された三輛の山車のうち「河水車」は東区出来町に、「布袋車」は緑区有松町に譲渡され、現在若宮祭に登場する山車は「福禄寿車」1輌となっています.
→旧若宮祭礼車一覧
祭礼日:6月15・16日
■天王祭
那古野神社
「名古屋祭」伊勢門水著より天王車楽
江戸時代の名古屋城下で「天王」といえば、現在の「那古野神社」を指します.「亀尾天王社」〜「三之丸天王社」〜「須佐之男神社」と幾度か遷座と社名変更を繰り返して現在の「那古野神社」となっています.
「亀尾天王社」は創建が延喜11年(911)と伝えられる古社で、清須越しで名古屋の町が成立する以前から鎮座していたことになります.
名古屋城の築城の際に、城内三之丸の一角に東照宮と並び祀られたため、三之丸天王社と呼ばれ名古屋城の総鎮守となり、さらに城下町名古屋の氏神とされてきました.
明治維新の際には「須佐之男神社」と改称され、明治9年には城内に名古屋鎮台が設置されたため、東照宮とともに旧藩校である明倫明倫堂跡地だった現在地に移転されました.
さらに、現在の「那古野神社」と改称されるのは明治32年のことです.
戦国時代から祭りは行われていたようで、前車、後車の2輌の車楽(だんじり)が出されていました.車楽は尾張地方の古式の山車形式で、熱田大山祭の車楽(小山)とともに、津島天王祭の影響を受けたものと思われます.
二輛の車楽(だんじり)が名古屋城外堀の片端に置かれ、文政年間以後には車楽に献灯見舞と称して近隣の名古屋村や広井村(いずれも現名古屋市中村区)あたりから多くの名古屋型山車が曳き出されました.これを「見舞車(みまいぐるま)」といい、最盛期には16輛の見舞車があったと伝えられます.
明治25年以後は、山車に替わって大型の神輿が祭礼行列に加わり、那古野神社から若宮八幡社まで神輿が往復するようになりました.
→旧三之丸天王祭見舞車一覧
祭礼日:7月15・16日(那古野神社例大祭)