東海の山車祭り

第6章 山車の装飾 (1/5)

山車を作るためには、宮大工、彫物師、絵師、織物師、塗師、金工師、人形師、その他、楽器や小道具を作る人など、非常に多くの作家や職人が参加する。その中で特に注目され、また記録的にもよく残っているのは、彫物師、絵師、人形師である。

彼らは山車の装飾の重要な部分を手がけており、その作者が町の自慢になっていることが多い。
これらの分野についてはそれぞれ専門に研究している人がおり、解説した文献(注17)もあるので、ここでは中京地方の山車文化を理解する上で重要な作家についてのみ、簡単に紹介する。

(1)彫刻師

山車の形の変化のよく分かる知多型で見ると、18世紀中頃の山車(乙川八幡宮祭礼図、南知多町吹越の山車)にはほとんど彫刻はなかったが、18世紀後半には豪華な彫刻で飾られるようになった。
当時は金箔や彩色が施されるのが普通で、その最も完成された姿は碧南市鶴ケ崎組の山車に見られる。

しかし、19世紀以後は立川流の影響でほとんどの山車が白木彫りで飾られるようになった。幕末から明治にかけて中京地方には多くの名匠が現われ、またこの時代は山車建造のピークだったため豪華な彫刻で飾られた山車が次々と作られた。


立川和四郎冨昌(二代目立川和四郎・1782~1856)


73 立川和四郎冨昌 亀崎「花王車」壇箱

諏訪の宮大工・立川流の二代目で、「諏訪の和四郎」の名で知られる名匠。

立川流は建築と建築彫刻の両方を手がけたが、富昌は特に天才的な彫物師として名をなした。

それまでの建築彫刻の題材は、鳳凰、龍、唐獅子、牡丹など比較的限られていたが、富昌は中国の故事など、斬新で高尚な題材を取り入れ、建築彫刻を一変させた。その作風は木目を生かした白木造りで、立体感と迫力に富んでいる。

代表作は亀崎潮干祭の力神車と花王車(写真73)、上半田祭の福神車、高山祭の五台山など。


立川常蔵昌敬(1802~1863)


73 立川和四郎冨昌 亀崎「花王車」壇箱

二代目立川和四郎の甥で娘婿、和四郎の片腕として立川流を支えた。

その技術は富昌と遜色無く、富昌の代作をしている例もある。

代表作は下半田祭唐子車(写真74)、亀崎潮干祭神楽車。


立川和四郎冨重(三代目立川和四郎・1815~1873)


73 立川和四郎冨昌 亀崎「花王車」壇箱

二代目立川和四郎の息子。先代の作風を良く受け継ぎ、迫力のある作品を残した。

代表作は乙川祭源氏車(写真75)、布土祭護王車、桑名西船馬町祭車など。

幕末から明治にかけて、名古屋、高山、桑名などは名匠を輩出したが、いずれも立川流の影響を受けている。

ただし、彫刻の技術では、以後の名匠に比較しても、富昌、昌敬、富重の立川流の3人が際立っている。


早瀬長兵衛吉政(六代目彫長)


73 立川和四郎冨昌 亀崎「花王車」壇箱

早瀬長兵衛(彫長)は名古屋で何代も続いた彫物師(初期は宮大工)。特に六代目の吉政は尾張藩御用彫物師として藩の仕事を手がけ、名人として知られた。

吉政は文化文政頃に山車彫刻を手がけており、代表作として、碧南市鶴ケ崎の山車(写真76)(亀崎潮干祭東組の旧車)がある。

金箔や極彩色で飾られた豪華な作風だったが、白木彫(立川流)の流行のため、山車の作例は多くない。なお、明治初期に活躍した八代目の早瀬元兵衛も名人として知られる。


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