東海の山車祭り

第6章 山車の装飾 (2/5)

瀬川治助重定(初代瀬川治助・1781~1850)


77 瀬川治助重定 横須賀「本町組」高欄下

名古屋の町方彫師。作品は白木彫りが多く、特に獅子や龍の彫刻は表情豊かで愛らしく、諧謔味がある。

息子の重光とともに名古屋周辺の多くの山車を手がけており、鳴海祭(表方、裏方)、横須賀祭(写真77)、大田祭には、多くの作品が残る。


瀬川治助重光(二代目瀬川治助・1819~1888)


78 瀬川治助重光 亀崎「宮本車」壇箱

初代の重定の息子。白木彫りで、細かく彫り込んだ精緻な作風が特徴で、豪快な作風の立川流とは異なる味を出している。

その作例は亀崎潮干祭の宮本車(写真78)、鳴海祭表方の山車、挙母祭南町と喜多町の山車、豊田市高橋町の山車、岡崎町矢作町の山車、大四日市祭の鯨船明神丸など非常に多い。


新美常次郎(初代彫常・1876~1956)


79 新美常次郎 乙川「神楽車車」壇箱

八代目彫長の元で修行し、半田に居を構えて活躍した。知多半島のほとんどの山車に彫常一門の手が入っていると言われている。

彫長一門の出身であるが、その作風は立川流の影響が強く、日本神話などを題材とした迫力のある彫刻を残した。立川流を模した力神の作例も多い。

半田の山車には、彫常が手がけたものが非常に多く、代表例として乙川祭の神楽車(写真79)と八幡車、上半田唐子車、下半田祝鳩車(いずれも半田市)などが挙げられる。


谷口余鹿(1822~1864)


80 谷口余鹿 高山山王祭「麒麟台」

二代目立川和四郎の刺激を受け、高山の屋台の多くに彫刻を施した。

高山の屋台が現在のように豪華な彫刻で飾られるようになったのは与鹿の功績によるところが大きい。

34才の時に高山を去り、以後戻らなかったという。
彫物の題材は立川流に倣ったものが多いが、作風は立川流に比べ絵画的である。代表作は高山山王祭の麒麟台(写真80)と恵比須台など。


高村光雲(1852~1934)

竹内久一(1857~1916)

 
81 高村光雲 桑名石取祭「羽衣連」 82 竹内久一亀崎「青龍車」

いずれも東京美術学校(今の東京芸術大学)の教授で、明治時代を代表する彫刻家。

明治初期の洋風彫刻や象牙細工の流行の中で木彫を復活させ、芸術にまで高めた。
高村光雲は桑名市羽衣連(写真81)の祭車、竹内久一は亀崎潮干祭青龍車(写真82)に作品を残している。

この他にも明治時代の東海地方では立川流などの影響を受けて、多くの名匠が生まれた。
名古屋の野々垣清太郎(彫清)、伊藤松次郎則光(彫松)、桑名の小川義休、高山の浅井一之村山群鳳などが良く知られている。


前のページメニュー次のページ