延宝4年(1676)に大久保見町(明治以後は鉄砲町)が建造した山車です.
天保6年(1835)に尾張藩主から大幕を拝領したことから、翌天保7年(1836)出高欄を作り、福禄寿にちなんで南極星を珊瑚珠で嵌めるなどの改造を施されました.
また天保12年(1841)には折上天井が新調されるなどの改修が行われ、この頃に現在の姿になったようです.
山車名は大将人形の福禄寿(七福神のうちの一人)にちなんでおり、「福録車」「南極星車」とも呼ばれました.
明治25年(1892)以後は休車になり若宮祭にほとんど曳き出されることがなかったようです.
名古屋市内の多くの山車が焼失した太平洋戦争の空襲では運良く難を逃れた福禄寿車ですが、昭和22年(1947)に河水車とともに出来町(名古屋市東区)に売却されます.
その2年後に返還された際に、若宮八幡社の所有となった福禄寿車は、昭和25年から復活し那古野神社への奉曳や名古屋まつり山車揃にその雄姿を見る事ができます.(昭和38年から昭和60年まで奉曳休止)
福禄寿車は名古屋三大祭りの山車※で唯一現地に残る山車でもあります.
※名古屋三大祭り(東照宮祭9輛、若宮祭7輛、天王祭2輛、除く天王見舞車)
空木立 |
空木立側面 |
天保年間以前は「菱形に雨龍の金襴」という大幕でしたが、天保6年(1835)に祭り好きで有名な尾張十代藩主斉朝公より猩々緋の大幕を拝領し、これ以降名古屋近郊の山車に猩々緋の大幕が流行したといわれます. |
「白羅紗に群鶴の縫い散らし」 下絵は式部卿法眼梅山(松野梅山) 文化15年(1818)作 当初は猩々緋の無地でしたが、その後「雲に麒麟の織物」に変更. 文化15年「はな色地にさい色の龍の縫い」から現在の水引幕となりました. |
左側面 |
右側面 |
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後部 |