亀崎潮干祭~中切組 力神車

中切組力神車の起源は明らかではありませんが、現在の山車は文政9年(1826)に横松村(現阿久比町)の大工庄蔵と善次郎により総造り替えが行われています。
山車は立川流の彫刻「力神」に象徴されるように、数々の彫刻は文政10年(1827)に信州諏訪の立川和四郎富昌・常蔵昌敬に注文し、2年後の文政12年(1829)に完成しました。

このときの記録は「山車彫刻仕用帳并金銀請取留」として中切組に保存されており、文政10年3月に総費用104両2分と祝儀6両2分合計111両で完成したことが記されています。

現在亀崎に残る山車では一番古く、各部に塗りが施されているなど古い様式を色濃く残しています。これは明治2年(1869)から13年(1880)の間に塗箔が行われ、さらに明治38年(1905)に全部塗替修理が行われました。

この明治38年には伊藤松次郎(彫松)、新美常次郎(初代彫常)らによって彫刻の修理も行われています。
大正6年(1917)台輪新調。
平成23年(2011)山口県小郡在住の彫刻師有馬白匠要治により、下絵をもとに破損・欠損部の修復が行われました。

代表彫刻は壇箱「海棠に親子鶏・力神」、脇障子「張子房乗龍・黄石公馬上」、蹴込「牡丹に乱獅子」などでいずれも立川和四郎冨昌の作です。

前山人形は「猩々の舞」で面被りのからくりで、上山人形は「浦島」で昔話の浦島太郎の物語を演じます。
いずれも面被りの機構を用いるからくりとなっています。

また、大幕は京都の絵師越前守岸駒の下絵によるものです。

■建造
文政9年(1826)
■主な彫刻
壇箱:「海棠に親子鶏 力神」(立川和四郎冨昌)
 
脇障子:「張子房乗龍 黄石公馬上」(立川和四郎冨昌)
 
懸魚:梅福仙人ー鳳凰に乗る(立川和四郎冨昌)
 
蹴込み:「立波に千鳥(浮き彫り)」(立川和四郎冨昌)
■山車幕
大幕:猩々緋に虎の刺繍(下絵 越前守岸駒)
 
水引幕:青龍の縫いつぶし(下絵 越前守岸駒)
 
追幕:続日本後記巻15の和歌と翁の面(千秋季雄の書)
■からくり
前棚:猩々(面かぶり)(五代目玉屋庄兵衛)
 
上山:浦島(面かぶり)(六代目玉屋庄兵衛)

■力神車の詳細

■壇箱彫刻「力神」

力神

山車名の由来ともなっている力神の彫刻は、文政10年立川和四郎冨昌による作品です。
立川和四郎の彫刻が亀崎の山車に取り入れられた動機を、望州楼3代目・成田新左エ門の手記から一部引用します

「遠州秋葉山に参拝せし時、山門にある力神を見て日頃懇意にしたる方丈に作者を聞きたるに諏訪の和四郎と言われ、方丈の添え書きをもらい諏訪に至り、和四郎富昌に依頼せり。力神が出来たる時富昌背負い来り、以来文政十年三月より十二年九月迄当地に於て力神車、神楽車、花王車を作る。」

■力神車の曳き廻し

初の日~海浜曳き下ろし

16-05-04


初の日~海浜曳き下ろし

15-05-05


後の日~海浜曳き下ろし

17-05-03


初の日~海浜曳き下ろし

17-05-03


初の日~海浜曳き出し

16-05-03


初の日~曳き上げ坂

16-05-03


初の日~旧大店坂

16-05-03撮影


初の日~旧本町

15-05-03


初の日~尾張三社曳き込み

15-05-03撮影


初の日~尾張三社曳き込み

17-05-03


後の日~尾張三社曳き出し

17-05-03撮影


初の日~交番前

17-05-03撮影


後の日~尾張三社曳き出し

19-05-04


後の日~交番前

19-05-04撮影


後の日~県社曳き廻し

16-05-04撮影


後の日~県社曳き出し

17-05-04撮影


後の日~町内巡行

19-05-04撮影


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