亀崎中切組|力神車|山車彫刻

力神車の彫刻は文政10年(1827)に信州諏訪の立川和四郎富昌・常蔵昌敬に依頼し、2年後の文政12年(1829)に完成しました。
代表彫刻は壇箱「海棠に親子鶏・力神」、脇障子「張子房乗龍・黄石公馬上」、蹴込「牡丹に乱獅子」などで、総費用104両2分と祝儀6両2分合計111両で完成したと記録に残されています。

明治38年(1905)大店坂で転倒した際に多くの彫刻を破損した際には早瀬長兵衛の弟子伊藤則光と新美常次郎によって修理が行われています。
また平成23年(2011)には山口県小郡在住の彫刻師有馬白匠要治によって、下絵をもとに破損・欠損部の修復が行われました。

 

■壇箱「力神・海棠に親子鳥」


文政10年(1827)立川和四郎冨昌作

壇箱 「力雄神」

文政10年(1827)立川和四郎冨昌作

壇箱 「力雌神」

文政10年(1827)立川和四郎冨昌作

壇箱 「海棠に親子鳥」

文政10年(1827)立川和四郎冨昌作
雌雄の鳥と小鳥
海棠(カイドウ)中国原産のバラ科の落葉植物で4~5月に花を咲かせる

■秋葉神社神門「力神」

立川和四郎の彫刻が亀崎の山車に取り入れられた動機を望州楼3代目・成田新左エ門の手記から一部引用します。
「遠州秋葉山に参拝せし時、山門にある力神を見て日頃懇意にしたる方丈に作者を聞きたるに諏訪の和四郎と言われ、方丈の添え書きをもらい諏訪に至り、
和四郎富昌に依頼せり。力神が出来たる時富昌背負い来り、以来文政十年三月より十二年九月迄当地に於て力神車、神楽車、花王車を作る。」

秋葉神社神門

秋葉神社は標高885mにあり、中世の中頃には「秋葉大権現」と呼ばれていましたが明治5年に神仏混淆を禁じられてからは「秋葉神社」と称するようになりました.
昭和27年全国の秋葉神社の総本宮である所から秋葉山本宮秋葉神社と改称しました。亀崎はじめ全国各地にある秋葉さんのいわゆる本店とも言うべき存在です。
昭和18年の山火事によって本殿を始め神門以外はすべて焼失してしまいましたが、天保2年(1831)に建てられたこの神門だけは唯一山火事から免れたものです。
天保2年(1831)信州上諏訪の住人立川内匠冨昌、和蔵久子、立川次右衛門富保、喜三良父子の手によって再建された棟札が残されています。
令和2年6月より解体修理中

神門の力神

壇箱猫足 「雨龍」


 

壇箱錺金具 「鳳凰」


錺金具の少ない亀崎の山車の中でも力神車は
唯一壇箱に金具装飾を施しています

壇箱錺金具 「鳳凰」


■脇障子「「黄石公馬上・張子房乗龍」」

(ハ通り)黄石公馬上

文政10年(1827)立川和四郎冨昌作
馬に乗った黄石公が履を蹴り捨て張良に拾わせ
ようとする場面

(イ通り)張子房乗龍

文政10年(1827)立川和四郎冨昌作
龍に乗り黄石公に履を差し出す張子房(張良)
  

蹴込み 「牡丹に乱獅子」


文政10年(1827)立川和四郎冨昌作

持送り 「立浪に千鳥」


髙齋綾彦(立川和四郎冨昌)、立川富昇(立川常蔵昌敬)作

台輪木鼻


大正4年(1915)間瀬常三郎作

ゴマ隠し 「桐唐草」


大正4年(1915)新美常次郎作

前山鬼板 「鍾馗、青鬼、赤鬼」


文政10年(1827)立川和四郎冨昌作

前山懸魚 「梅福仙人」


文政10年(1827)立川和四郎冨昌作

前山桁隠し(ハ通り)「鳳凰」


前山桁隠し(イ通り)「鳳凰」


前山太平鰭 「二十四考」


天保12年(1841)立川恒造作

前山蟇股前 「子持龍」


文政10年(1827)立川和四郎冨昌作

前山蟇股奧「梅に唐子」


文政10年(1827)立川作

前山虹梁 「菊浮き彫り」


文政10年(1827)

前山木鼻と斗組


 

前山手高欄「桐の花」


文政10年(1827)立川和四郎冨昌作

上山高欄廻り「竹に雀」




文政11年(1828)立川冨昇(昌敬)作

堂山蟇股「蟇仙人」


文政11年(1828)冨昇作

上山鬼板・懸魚


鬼板:文政10年(1827)立川和四郎冨昌作
懸魚:菊

上山蟇股「龍」


文政11年(1828)

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