■山車揃会場までの道程
東区の山車は、建中寺前で合流した筒井町の湯取車と神皇車は、同じく出来町通りを曳かれて来た出来町の3輛の山車と赤塚交差点で合流します.
5輛になった東区の山車は、出来町通りを白壁、清水口と西下し市役所西の待機場所に到着します.古出来町から約3Km、筒井町から約2.8Km
中区の福禄寿車は南大津通を北上し、待機場所の官庁街へ.2.6Km
中村区の3輛は、町内を出発して桜通、長者町通りを経て見舞車ゆかりの那古野神社(なごやじんじゃ)に立ち寄り、からくりの奉納を行ってから待機場所に向かいます.曳行距離2.6Km
→順路・帰路の詳細
→山車待機場所の詳細
■山車揃とパレード
栄交差点
官庁街の待機場所から山車は順次1輛ずつ市役所前に向かいます.市役所に着いた山車は半八重(270°回転)、本八重(540°回転)などで回転させながら山車を正面に向けて整列します.
山車はここで二つの組に分かれ、先頭の組はからくりを行わず山車を南に向けて、栄方面に曳き出されます.
→市役所前山車揃詳細
先に栄交差点に到着した山車は、交差点の各角に山車を向けからくりを披露します.からくり終了後は、一輛ずつ順次交差点中央で山車を回転させたのち町内に戻ります.
一方、市役所に残った組は、その場でからくりを披露し、栄交差点を経由して帰町となります.
※前半・後半の組は東区5輛と福禄寿車+中村区3輛で編成され、隔年毎に交代します.
→市役所〜栄交差点詳細
東区の5輛の山車は帰路途中休憩を挟んで、建中寺公園で行われている「なごやかまつり・ひがし」に参加します.建中寺山門前に並んだ5輛が順次からくりを披露します.
※詳細は各年度別のまつり紀行をご覧下さい.
福禄寿車、紅葉狩車、二福神車、唐子車、王羲之車、河水車、鹿子神車、湯取車、河水車
■名古屋祭
江戸時代から名古屋(城下)では東照宮、若宮八幡、三の丸天王社の祭礼を名古屋三大祭りと呼び、いずれも山車の曳かれる祭礼として多くの人で賑わいました.
なかでも東照宮祭(名古屋東照宮の例祭)は尾張藩を挙げての祭礼で、その規模も大きく城下の各町から出される多くの練り物や、著名な「橋弁慶車」など9輌の山車が登場する名古屋最大の祭礼でした.
戦前までは名古屋祭といえば、この東照宮の祭礼を指しており、現在の名古屋まつりで行われる山車揃はその名残といわれます.
→名古屋三大祭りの山車
■伊勢門水の名古屋祭
「名古屋祭」という本が明治43年(1910)に伊勢門水によって出版されています.(昭和55年に復刻版出版)
その内容は、前述の東照宮祭、若宮祭、天王祭を中心に、名古屋及びその周辺の祭りに関して、その歴史や逸話が記述されています.
「自らお祭り調査」と称し祭礼を詳細に書き留めた、いわば「祭礼調査報告書」でもあり、今は無き名古屋の山車の面影を知ることの出来る貴重な資料でもあります.
門水が描いた挿絵も多く掲載されており、名古屋の山車祭り・名古屋型の山車を知る上で「必携の書」、「バイブル」ともいえる書籍です.
伊勢門水(1859〜1932)
本名を水野宇右衛門(七代目)といい、家業は旗商.「水野宇右衛門」を「水の上(の)門」つまり「門水」と洒落て、屋号が「伊勢屋」であることから、伊勢門水と号した.
明治から大正にかけての名古屋を代表する文化人で粋人だった伊勢門水.10歳の頃より狂言を習い、狂言画、能画、陶器の絵付、狂歌など多彩な才能を発揮し、
新作狂言、長唄・常磐津の脚本なども手がけたという希代の粋人・風流人で、今日もその作品は多く残っている.
また文筆にも優れ、「名古屋祭」の他「末広町話」などの著書がある.