東海の山車祭り

第4章 山車祭りの歴史 (4/6)

●若宮祭


36 若宮祭礼図絵巻

若宮大通の名前の元となった若宮八幡宮は、かつて今の名古屋城内にあたる位置にあったが、城ができた際に現在地(白川公園の東側)に移され名古屋の総鎮守とされた。

若宮祭では延宝元年(1673)に黒船車を出したのを初めとし、寛保元年(1741)までに7輌の山車が作られた。若宮祭は東照宮と並ぶ名古屋を代表する祭りだった。

しかし、明治に入ると、7輌のうち西王母車(後に戦災で焼失)が離脱し、布袋車(建造)は明治24年に有松へ売却された。さらに戦災で黒船車等3輌を失い、戦後、河水車が東区出来町に売却された結果、現在残るのは福禄寿車1輌になった。
明治初年の7輌は次のものである。

黒船車 末広町
寿老人車 中須賀町
西王母車 上玉屋町
布袋車 下玉屋町 (緑区有松町に現存)
福禄寿車 大久保見町 (現存)
河水車 住吉町 (東区新出来町に現存)
陵王車 門前町

前述した通り、これらのうち、若宮祭に残っているのは福禄寿車(写真37)だけだが、他に緑区有松町に布袋車(写真38)が、東区新出来町に河水車がある。
また、岐阜県美濃市には黒船車の先代の山車(写真39)が残り、東区新出来町の鹿子神車は河水車の先代の山車(当時は山車名を産宮参と呼んだ)を譲り受けたものと言われている。


37 「福禄寿車」

38 現・有松東町「布袋車」

39 現・美濃市相生町「舟山車」

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