三之丸天王社は前述したように、名古屋建設のはるか前から2輌の車楽を出していた。江戸時代に三之丸天王社が名古屋の氏神となると、天王祭は名古屋を挙げての祭りとなった。
文政年間(1818~1830)に車之町(現、中区丸の内1丁目)が九代藩主斉朝から小型の山車(胡蝶の舞)を拝領すると、それまで山車を持つことを制限されていた名古屋村、広井村(いずれも堀川と名古屋駅の間の一帯)の各町が次々と山車を建造した。
これらを見舞車と呼び、多い時は16輌もあったという。明治時代に伊勢門水によって著された『なごやまつり』によると、16輌は次の通り。
和布苅車 | 車之町(焼失) |
靫猿車 | 益屋町(美濃市に現存) |
翁車 | 新道(焼失) |
殺生石車 | 新道(焼失) |
散手車 | 新道(焼失) |
湯取車 | 小伝馬町(焼失) |
浦島車 | 万松寺領(焼失、旧車が美濃市に現存) |
紅葉狩車 | 上花車(現存) |
二福神車 | 下花車(現存) |
神功皇后車 | 新屋敷(東区筒井町に現存) |
唐子車 | 内屋敷(現存) |
弁天車 | 戸田道(焼失) |
胡蝶車 | 禰宜町(明治時代に焼失) |
神楽車 | 古江町(明治時代に売却) |
張良車 | 中の切(常滑市西之口に現存) |
人形不定 | 禰宜町(明治時代に売却) |
このうち7輌の現存が確認されている(旧車のみ残る浦島車を含む)。天王祭の見舞車は戦前までかなりの数が残っていたが、これらは明治以後、独立して地元の祭で曳かれるようになり、天王祭自身は明治の時点ですっかりさびれてしまった。
なお、現存する見舞車の内、張良車(写真41)は、明治以来長く行方不明であったが、愛知山車祭り研究会の酒井広史氏らにより見舞車であることが確認された。
また、静岡県浜北市宮口(現浜松市北区)には二福神車の先代の車(写真42)がある。二福神車については、文政時代に建造された山車と信じられてきたが、旧車の発見(箱書き等により判明)により、幕末明治頃に一度作り替えられていたことが明らかになった。
宮口の山車が旧車であることは、浜松市の矢島勇氏より連絡を受け、愛知山車祭り研究会と二福会のメンバーが確認した。