東海の山車祭り

第3章 山車祭りの歴史 (3/4)

(3)山車の全盛時代(江戸後期・明治)

19世紀は、文化文政期(1804~1830)から幕末を経て、明治時代(1867~1912)に至る期間である。この世紀は山車の全盛時代であり、我々が現在見る山車の多くがこの時代に作られている。

文化文政期はあらゆる工芸分野が発達し、商人が財力を蓄積して台頭してきた時期である。この結果、各地で山車の新造があいつぎ、それ以前から続く山車も、そのほとんどが大改造され、新たに装飾品が作られてその姿を一変した。
その具体例として、当時の史料が良く調べられいる三つの祭を紹介する。

●京都祇園祭


24 祇園祭「月鉾」

室町時代から続く京都の祇園祭でも、現在の山鉾の形が完成されたのは、江戸後期である。
祇園祭は天明8年(1788)の大火で多くの山鉾を失い、これらが寛政年間(1789~1801)に再建されて現在の山鉾の元ができあがった。

さらに、大型の鉾や曳山では、文政時代から天保時代にかけて大屋根を中心とする大改造を次々に行ない、豪華な屋根回りの装飾が作られた。現在見られる鉾の姿はこの時期に完成されたものである。

また寛政期に再建できなかった函谷鉾が天保10年に再建されている。松田元氏の著書(注9)を参考に、この前後の各山鉾の大改造年代をまとめると次の通りである。

・長刀鉾
文政11年(1814)大屋根新調
文政13年(1816)大屋根の装飾完成
天保8年(1837)上層の金具完成
・函谷鉾
天保10年(1839)再建
・月鉾
天保6年(1835)大屋根の装飾完成
・鶏鉾
文政8年(1825)大屋根の装飾完成
・舩鉾
天保5年(1834)屋形完成
・北観音山
天保3年(1832)大屋根新調
天保4年(1833)大屋根の装飾完成

ただし、放下鉾は、明治時代の大改造によって現在の姿となった。また、函谷鉾は天保10年に新造されたが、以後明治時代までかかって装飾を整え、現在の形を完成させた。
岩戸山、南観音山、幕末に焼失した菊水鉾、凱旋舩鉾については詳細不明である。

なお、祇園祭の呼び物である幕類については、江戸時代を通して盛んに新調が行われたようで、この時代には有名な鶏鉾のゴブラン織りの見送り(国指定重要文化財)などが購入された

●高山祭

高山祭も、やはり文化文政時代に現在の豪華な屋台ができあがったと考えられる。高山祭の屋台のうち、約半分が文化文政期から天保時代の間に新造され、また他のすべてがこの間に改造されている(ほとんどの屋台が明治時代にもさらに改造された)。

この前後に造られた各屋台の建造年を挙げる。(注10)
特に文政元年の八幡祭では、一挙に6輌の屋台が再建復活を果たし、人々を喜ばせた。この時、八幡祭の屋台の数は15輌に達した(現在は11輌)。

大国台 (山王祭) 寛政8年(1796)
太平楽 (山王祭) 文化10年(1813)
神楽台 (八幡祭) 文化12年(1815)
神楽台 (山王祭) 文化年間
金鳳台 (八幡祭) 文政元年(1818)
大八台 (八幡祭) 文政元年
鳳凰台 (八幡祭) 文政元年
牛若台 (八幡祭) 文政元年
文政台 (八幡祭) 文政元年
船鉾台 (八幡祭) 文政元年
神馬台 (八幡祭) 文政13年(1816)
鳳凰台 (山王祭) 天保6年(1835)
豊明台 (八幡祭) 天保6年
五台山 (山王祭) 天保8年(1837)
青龍台 (山王祭) 嘉永4年(1851)
鳳凰台 (八幡祭) 嘉永7年(1854)
再び新造

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