07-07-01更新

門水再考〜いにしえの名古屋祭

第1回 若宮祭「西王母車」 〜後編〜

D期  明治2年(1869)〜明治12年(1879)

資料5−「名古屋祭」より転載

 C期の離れからくりが非常に難しい所作であるため、資料2のような大桃が割れるからくりへと戻した。

[考察]

 残念ながらこの時代のからくり形態を描いた一級資料は存在しない。ただし、門水本にはこの時期の西王母車を示す挿絵が掲載されているため、参考までに紹介しておく。(資料5)

なお、この時のからくり人形は小牧へ売却されたと、門水本は紹介している。

 売却されたのは唐子2体のみで、西王母人形はC期から踏襲し、さらにE期へとそのまま継続使用されたと考えられる。

 小牧・下本町の人形作者は同町の記録によると、竹田新七・新助らであり、製作年は明治4年とされている。門水本と2年の隔たりがあるものの、口伝による格差の範囲である。

資料2を見ると、大桃と大唐卓の間に桜木が横たわっているが、B期から約100年据え置かれた人形を竹田新七・新助らが修繕し、資料2の形態から資料7のような大唐卓へと変更されたものと考えられる。


資料6−小牧・秋葉神社祭礼 下本町「西王母車からくり人形」

資料7−現小牧下本町「西王母車」の大唐卓

E期  明治12年(1879)〜戦災

資料8−掛け軸 吉川弘道筆「西王母車図」(個人蔵)

 やはりD期のからくりが単純すぎてつまらないということで、再度C期の離れからくりを採用。人形師は土井新三郎(花新)であった。

[考察]

 門水本では再度C期の唐子肩車からくりを採用したとしているが、資料3と資料8とでは桃の木の位置が違う。つまりC期と同じようなからくりを、土井新三郎が新調したと考えられる。

また、C期の離れからくりが困難だったということで、この時は肩車した状態で離れることなく桃の木に提げられた太鼓を打ったのかもしれない。

唐子2体が離れるのなら、最高見せ場の状態で掛け軸に描いても良さそうである。

 資料9は那古野神社境内に飾られた西王母車である。上玉屋町は明治維新後、若宮八幡社から那古野神社(旧三の丸天王社、当時は須佐之男神社)へと氏子替えした。 明治25年に那古野神社祭礼が御輿祭りに変更されて以後、山車は曳かれず、大正12年(1923)には那古野神社へ献納され、隔年で境内へ飾られるのみとなった。

 資料8に描かれた内高欄は「極彩色の雲龍文様」であるが、資料9は「白地に蝙蝠文様」である。 内高欄が変更されていることで、以下の2点が考えられる。


資料9−那古野神社境内に飾られる西王母車(戦前古写真)
  • 資料8を描いた吉川弘道は大正7年(1918)に没していることから、少なくともそれ以後に何らかの理由で(那古野神社へ献納する際か?)、内高欄を改修した可能性がある。
  • 人形を変更した明治12年に内高欄を改修したとすれば、資料8は「肩車」のからくりを復興するにあたり、C-3期の山車形態を精密に描いた、いわばイメージ画である可能性もある。
    筆者の吉川弘道は当時42歳(天保8年(1837)生まれ)であり、撒金(ふりきん)技法に長け、有職故実に精通した画家であったことから、こうした細密画の注文を受けて描いたことが想像できる。こうして山車の形態を回顧的に描く事例は、柳田樵谷(嘉永2年(1849〜?)による本町・猩々車図などにも見られる。つまり、写真8はE期よりもむしろC-3期の形態で描かれた可能性がある。そうだとすれば、弘道の絵が示すとおり、安政年間の大修理では出高欄に千鳥の彫り物、内高欄などが整備されたのかもしれない。
    資料8の絵画は、西王母車研究において様々な可能性を秘めた、好資料なのである。

  以上、西王母車のからくり・幕の変遷を時代毎に図入りで紹介してきたが、戦争で焼失した山車についての研究は困難を要する。今後の研究成果に期待したい。