二番永田組組頭・矢沢新吾氏のご厚意により、新たに助言・資料提供を受けたため、明治維新後の西王母車について弱冠補足する。
那古野神社(旧三の丸天王社、当時は須佐之男神社)は、明治9年(1876)に現在地へ移転となるまで名古屋城三の丸内に鎮座され、
2輌の車楽を片端筋(現在の外堀通:「本町橋」交差点周辺)に飾り立てることを主旨とした祭礼が行われていた。
しかし明治25年以後、白木の神輿2基を中心に東照宮祭のような警固が供奉する行列祭りへと変更された。
資料10は、明治25年の祭礼再興を記念して描かれた絵図(刷り物)である。
なお、この絵図の模写(伊藤嶂風筆、昭和45年)が同神社・社務所に掲げられている。
「榊持ち」「太鼓台」に始まり、「神輿」に至るまで、様々な警固が4段にわたって下から順に描かれ、途中省略したあと、7輌の山車と2輌の車楽(朝宵それぞれ)が描かれている。
和布刈車は天王社の車楽へ提灯を奉ずる「見舞車」を最初に出した車ノ町(現在の「魚ノ棚通」、桑名町通以西)が所有した車。
車ノ町は、天王見舞車の「御車元」としてだけでなく、名古屋城築城前から車楽に奉仕したという、天王社にとって所縁の深い町である。
玉藻前車から浦島車までの5輌は名古屋村(現在の西区新道1・2丁目付近)の山車である。
江戸時代、名古屋村は車ノ町・益屋町・廣井村と共に車楽の曳き出しを担当していた。明治25年はこの担当が車ノ町と名古屋村であったという由緒を以って、
名古屋村の見舞車5輌も車ノ町の後に曳き出されたものと思われる。
これら天王社に所縁のある山車6輌に先んじ、玉屋町の西王母車が山車の先頭を担っている事がたいへん興味深い。
玉屋町は明治9年(1876)の天王社遷座に伴い、同社の氏子へと組みかえられたため、この神輿渡御で奉曳されることとなった。山車としての古さから、見舞車より前に据えられたのだろうか。
大正12年(1923)以後、西王母車は那古野神社へ奉納され、隔年で境内に飾るのみであったことが玉屋町の記録に残されている。つまり、神輿に伴う山車の奉曳は長く続かなかったのである。
費用・人足の問題、交通事情等に拠るものであろうか。
明治25年以後の神輿渡御に伴う山車奉曳について、門水本には全く触れられていないことから、各町とも同じような状況であったことが推測される。
資料11は、太平洋戦争で西王母車を焼失した玉屋町が、その面影を後世に伝えるため、残った祭礼費を尽くして画家の大塚香禄に描かせたものである。
香禄は明治36年(1903)生まれ、戦前は朝見香城、戦後は川端龍子に師事し、昭和57年(1982)に78歳で没している。淡く流麗な画風を好む画家であったが、 ここでは玉屋町の意を汲むかのように、精密な筆致で西王母車を描いている。 山田鉦七著「郷土の山車写真集」所載の古写真と構図が似ていることから、おそらくそれらを参考に描いたのであろう。
本編で紹介した資料9の写真と同様、内高欄は「白地に蝙蝠文様」であるが、ここでも資料8との相違点が認められる。前棚の麾振り人形である。
資料8の前人形は侍烏帽子を被り、左腰に脇差を差し、右肩袖を脱いで采配を持つ稚児小姓風で、着座している。因みにここまではすべて着座状態である。 特に資料3と8の前人形は全く同一であろう。それに対し、資料11では人形が直立しており、一見唐子風にも見える。
また、資料8を描いた吉川弘道の落款を見ても、作品の多い晩年のものに比べて壮年期以前の硬さが感じられる。弘道30歳代の幕末明治期に描かれた可能性が高い。
つまり、資料11こそがE期の西王母車の姿を伝えており、資料8はC-3期、安政の大改造を施した頃を示すものである可能性がより強まった。