かつて若宮八幡社の例祭には7輌の山車が曳き出された。明治維新後の混乱期、太平洋戦争を経て、現在は「福禄寿車」1輌が祭礼に曳き出されるのみである。
7輌のうち、上玉屋町が所有したのが、西王母車である。 上玉屋町とは本町通沿い、伝馬町通と本重町通の間であり、現在は万兵やシモジマなどが建つ周辺である。なお、本重町は江戸期では鶴重町と呼称されていた。
西王母のそばに1人の唐子を置き、その前にある桃の木の枝に生る大きな桃が二つに割れ、中から唐子が飛び出すというからくり。
大幕は最初、「茶地と浅黄地の金襴」の幔幕、 水引幕は「浅黄地に龍の織物」である。
資料1は若宮祭礼を描いた最も古い絵巻物に紹介された、西王母車の形態である。門水本にもこの絵巻物を元に門水自身が描いたと思われる挿絵が紹介されている。
からくりの所作は、桃が割れて唐子が飛び出すと、摺り鉦を鳴らしながら、樋(この場合樹上)の上を歩行したものと思われる。後の住吉町「河水車」の龍神人形も同じような仕組みであったろう。
大幕は「茶地と浅黄地の金襴」である。「浅黄色」とは「浅葱色」とも書き、「薄いネギの葉の色」、つまりごく薄い紺色である。写真1で紺色に見える部分を指す。門水本では単に「金襴」としか記述されていないが、資料1から判断して「花唐草金襴」であったと考えられる。
玉屋町西王母の車
宝暦の頃は台の上に大きな桃の作り物あり。手で摺り鉦を鳴らすと、一方の唐子も共に踊る。この、桃が二つに割れるからくりは、二福神車(上長者町)に乗る宝袋のような仕掛けである。
今は肩車で唐子が乗るからくりになっている。
玉屋町・西王母車の古図は前にも掲げておいたが、宝暦年間(1751~1763)に千?という人が この祭車の図を詳細に描いて額とし、同町の祭土蔵に納めてある。
それを見ると西王母と大唐子 に変わりはないが、あの大桃は朱塗四足の大唐卓の上に載せてあってそれが二つに割れて中から人形が出てジャガラを鳴らすという趣向である。 また麾振りの唐子の左右には桃の造花がたくさん挿してある。
門水本に記載はないが、高力猿侯庵筆「名陽旧覧図誌」(文化3年(1806)著)を開くと、宝暦年間の西王母車は、大桃が割れて唐子が出で摺り鉦を打ち鳴らすからくりであったことが記されている。また門水本で紹介されている『千?が描いた額』もほぼ同一とみられ、両者は同時期の西王母車形態を示していると考えられる。
門水はこの「大唐卓上で割れる大桃のからくり」を明治10年頃の新作として調査を進めたのであるが、後に『千?』の額の存在を知って、「追記」の形で報告しているのである。
つまり、門水本の本文では、創成期からC期の「肩車」からくりへ直接変更された、と間違えて考察している。
資料1と資料2のからくりを見比べると、大桃の乗る桃の木の枝を切り取って、大唐卓の上に載せているように見える。なお、幕は大幕・水引幕とも、創成期からの踏襲であると考えられる。
大阪の人形師・竹田寿三郎の細工により、大唐子が小唐子を肩車に乗せ、高い桃の枝に結び下げた糸にとまらせて退くと、小唐子は左手でぶら下がりながら右手で太鼓を打つという、難易度の高い離れからくり。
資料3は寿三郎がからくりを改修した西王母車の形態を描いた絵巻物。小唐子が肩車から離れて左手でぶら下がるというからくりは、確かに難易度は高い。
果たして門水本の記述のようなことが本当に出来たのか、疑問に思う。
大幕はAの創成期に比べ、浅黄地と茶地のパターンが少し相違しているが、そのまま踏襲しているものと考えられる。
水引幕も資料1と資料3では見た目が違うが、使用した胡粉の違いであり、両者とも「浅黄地に龍の織物」であると考えられる。
大幕は・・・その後緋羅紗に雲竜の金糸縫いを新調し、 水引は・・・その後花色地に楽器模様の金襴と仕替え、また安政年間に白羅紗と変更し、模様は以前の楽器尽くしを写して金糸で縫を施した。
人形は前期からの踏襲で、大幕・水引幕のみの変更である。
大幕を「緋羅紗に雲竜の金糸縫い」、水引幕を「花色地に楽器模様の金襴」に変更したが、その時期を明確にする資料は見当たらない。
おそらく他の若宮祭礼の山車のように、文化文政年間(1804~1829)、名古屋開府200年前後に改正したものと思われる。
なお、水引幕の「花色」とは正式には「はなだいろ」といい、淡い藍色のこと。先の「浅黄色」の紺色とは微妙に色合いが違う。名古屋叢書三編第6巻で翻刻された「尾張年中行事絵抄 中」で、その様子を窺うことができる。(資料4)
安政年間(1854~1859)に車体をはじめ諸道具改造の際、大幕を猩々緋の無地幕、水引幕を「白羅紗地に楽器模様の金襴」へと変更した。
大幕は猩々緋、水引は白羅紗、人形は肩車という組み合わせの、幕末の約10年の形態であるが、この頃を示す資料は全く見当たらない。