[横須賀まつり]−[どんてんぐるま]−[末之世の噺のため書留置申候] | |
末之世の噺のため書留置申候 |
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「古今綱領目録抄横須賀町方編」(以下目録抄と略す)は、延宝9年5月から天明5年11月(1681〜1785)迄の約100年間の町方から奉行所、代官所への諸願や沙汰、触書の写しから火事・洪水の被害など多義に渡って記された記録である. 横須賀町方の様子を伺い知る貴重な資料であるが、光友公の横須賀御殿造営の15年後から横須賀代官所設置の2年後迄の記録であるため、現在の横須賀まつりに関しては記載がない. 唯一この「目録抄」に山車に関する記述があるので下記に抜き出してみた. |
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戸部御芦當所大教院へ御着岸被遊段々賑ひ御芦御いさめに浦祭つゐてに車一輛からくり紅葉狩に致し閏七月十五日之筈天氣惡敷同十七日に相勤近在所々より大分之見物前代未聞之事と男女老若おしなへて目をおとろかししばし明夕目をふさかす帰りしときこゆ末之世の噺のため書留置申候 享保六丑七月 | ||||||
戸部は現在の名古屋市南区の富部神社のことで、当時は戸部天王或いは蛇毒神天王社と呼ばれており、現在でも津島神社(津島市)や富吉天王社(海部郡蟹江町)で行われている神葭神事が、当時この戸部天王や天王崎天王(現名古屋市中区州崎神社)などでも行われていたのである. 神葭神事とは葭(よし)を束ねた神葭(御芦)を川に放流する行事で、疫神送りの神事であり、また厄・人々の罪穢れを葭に託して流すとも言われ、沿岸の村々ではこの神葭が流れ着くことを忌み嫌ったという. しかし、時代を下る毎に神慮を和ませるためと称し神葭着岸を祝うようになったというから『御着岸被遊段々賑ひ御芦御いさめ』とあるように横須賀町方でも着岸を盛大に祝ったのだろう. 大教院は公通組八公車の山車蔵の東に現存する寺で、かつて琴弾松という名松があり張州雑志にも取り上げられた名勝である.残念ながら近年琴弾松は枯れ、寺も荒れてしまったのが残念である.(参考→八公石) 『大教院へ御着岸』とは大教院近くの浜に御芦が流れ着いたという意味だろうか. 『浦祭つゐてに車一輛からくり紅葉狩に致し閏七月十五日之筈天氣惡敷同十七日に相勤・・・』 浦祭りとは豊漁や五穀豊穣など地域の安全や発展を祈る祭りの事であるから、氏神の愛宕神社例祭を指すと思われる.愛宕神社例祭は当時8月24日に行われていたが、この年は閏年のため閏七月となったようだ. この享保6年の他に「目録抄」には神葭着岸に関する記述がるので参考の為抜粋してみた. ■享保四亥年(1719) 加家村(現東海市)へ御芦御着いさめに参る(大教院着岸の2年前の事である) 一 金三百文 初尾 加家村へ 一 金壱兩 大教院甚内へ札金(ここでも大教院が出てくるが) 一 三分 久米村(現常滑市)武兵衛へ札金 ■宝暦三酉年(1753) 津島御葭御着被成候(津島神社の御葭着岸だが、何も行われなかったのかこの1行のみ) |
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後編に続く |
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