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  八公石


張州雑志 内藤東甫著
 八公の山車蔵近くの脇道を東に入ったところに大教院という寺がある.修験道の寺だったそうであるが,ここに近年まで「琴松」という老松があった.大教院の名は知らなくても琴松をご存じの方は多いだろう.惜しくも枯死してしまったが,この大教院の境内に「八公石」と刻まれた句碑がある.

 この「八公石」の八公だが,八公組の組名と符合する事に気が付くだろう.「八公石」の句碑は明和2年(1765)の年号が刻まれている.おそらく現在の八公車よりも古くから存在していた事は間違いない.
では,八公組の名はこの八公石に因んでいるのだろうか?
残念ながら明確な答えは出てこないが,可能性としてはあり得るのではないだろうか.

 では,「八公」の意味は何だろうか. 上で述べたように,ここには琴松があった.境内所狭しと横に枝を伸ばした古木で,歌にも詠まれ横須賀屈指の名所であった.
この『松』という漢字を分解すると,「木」「公」になる.「木」は「十」と「八」だから,更に分解すると「十」「」「」となる.これは「(樹)木の君公」を意味することで,つまり松は数ある木の中で最高位の木だということらしい.
あくまで推論ではあるが,名勝の琴松からおそらくこのような意味を込めて「八公石」と彫られたのではないだろうか.

八公石の正面は上で述べたように『八公石』と大きく刻まれ,その横に明和2年の年号が刻まれている.側面は柵が邪魔になって見えないが,横須賀町史によると

『色かへぬ風のしらべや松みどり

と刻まれている.これは俳人の方間舎楓京が琴弾松を詠んだ句である.
方間舎楓京は本名を坂丈之進正盈(1707-1775)という.浜風を受け,妙なる音色を発する事から,この松を琴弾松と名付けたのもこの正盈である.
横須賀町方が繁栄し,多くの俳人歌人がこの地を訪れ横須賀俳壇を形成していたが,その中心人物だったのが正盈である.
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