尾張の山車まつりへ [横須賀まつり][どんてんぐるま][車一輛からくり紅葉狩]

車一輛からくり紅葉狩

 前項の続きだが再度「古今綱領目録抄」の一文を掲載する.
戸部御芦當所大教院へ御着岸被遊段々賑ひ御芦御いさめに浦祭つゐてに車一輛からくり紅葉狩に致し閏七月十五日之筈天氣惡敷同十七日に相勤近在所々より大分之見物前代未聞之事と男女老若おしなへて目をおとろかししばし明夕目をふさかす帰りしときこゆ末之世の噺のため書留置申候 享保六丑七月
 注目していただきたいのは『車一輛からくり紅葉狩に致し』の部分.車一輛を紅葉狩のからくりにしたのだという.
車一輛とは山車一輛という事である.横須賀で最も古いとされる大門組の山車が寛政6年(1794)、他は文化・文政以後の建造であることを根拠に、横須賀の山車祭りはこれらの山車建造年をもって起源とされてきた.
資料が残されていないゆえにやむを得ない面もあるのだが、町方としての隆盛や名古屋に近く城下の文化をいち早く受け入れることが出来た土地柄にもかかわらず、大里村(現東海市大田)や八幡(知多市)など周辺の村々より遅れて山車祭りになったことなど疑問も多い.
 圓通車山車蔵棟札に書かれた『奉再建祭禮車』の文言に注目すれば先代車の存在は十分考えられる事である.
この「古今綱領目録抄」に記された享保6年に山車が存在したとするなら、山車の起源は更に100年近く遡ることになる.

美浜町上野間「四嶋組」からくり

名古屋市中村区「紅葉狩車」

 『近在所々より・・・前代未聞之事・・・男女老若・・・目をおとろかし・・・』
紅葉狩のからくりに驚き、近在からも評判になった様が記されているが、まさに前代未聞の事だったのだろう.
『末之世の噺のため書留置申候』がそれを物語っている.
『紅葉狩に致し』とあるからには、このからくりが町方に初めて登場したのだろう.それ以前はからくりの無い山車だったのか、或いは別のからくりだったのを新たに紅葉狩にしたのかは不明である.
また紅葉狩の山車の他に山車が何輛存在したのかも記されていないので、この山車が現在の横須賀4組の何れに該当するかは断定出来ない.
しかし享保6年(1721)当時既にからくりを乗せた山車が横須賀町方に存在した事には注目すべきである.知多半島では最古のからくり山車の可能性もある.

 横須賀町方で『男女老若』を驚かした『紅葉狩』がどのようなからくりであったかは記されていないが、享保6年の約40年後に描かれた宝暦5年(1755)の乙川祭礼絵図の中に殿海道山の山車に見えるのが「紅葉狩」である.
このからくりは現存していて、明治末に殿海道山から譲渡されたという美浜町上野間の四嶋組のからくりがそれだという.このからくりは山車上で人形浄瑠璃形式で物語を演じるものだ.
 また、時代は更に下るが、広井村上花車町(現名古屋市名駅南)の紅葉狩車のからくりは能の『紅葉狩』を題材にしている.面被りの奇抜なからくりで、安政4年(1857)竹田源吉の作である.竹田源吉は本町組の甕割りのからくりを製作した人形師だが、本項とは関係ないだろう.蛇足ながら上記上野間の祭りには2輛の山車があり越智嶋組のからくり人形の作者も竹田源吉であるがこれも偶然だろう.

 「目録抄」に記されたこの『車一輛』『からくり紅葉狩』だが、その後の記録には全く登場しない.
また、紅葉狩のからくりについても当地に現存しない.からくり人形は時代とともに変更されることが多いので、破損して廃棄してしまったのか、あるいはどこかへ売却されたのか知るすべはないが、享保6年既にからくりの乗った山車が存在していたことは横須賀の山車祭りの歴史上重要なことである.更に検討を加えたい.

乙川祭礼絵図の紅葉狩
Copyright(c) 1998-2003 nova OwarinoDashimatsuri All right reserved
尾張の山車まつりへ 先ほどのページに戻ります [横須賀まつり][どんてんぐるま][車一輛からくり紅葉狩]