亀崎石橋組|青龍車|山車彫刻

明治末期から昭和初期にかけ帝室技芸員竹内久一、伊藤則光、八代目早瀬長兵衛、新美常次郎ら多彩な彫刻師の作品で彩られています

■壇箱「風伯神雷電神波に龍」

大正2年(1913)竹内久一作
中央に波に龍と、左に風伯神(風神)、右側に雷電神(雷神)
竹内久一
明治24年(1891)東京美術学校の開校にあたって校長の岡倉天心から彫刻科の初代教授に迎えられた。
明治39年帝室技芸員(現在の人間国宝に匹敵)
当亀崎では東組宮本車の前山太平鰭の制作、明治43年田中組神楽車の前山懸魚修復

壇箱 「風伯神」


大正2年(1913)竹内久一作

壇箱 「雷電神」


大正2年(1913)竹内久一作

壇箱 「波に龍」

大正2年(1913)竹内久一作

壇箱猫足 「龍」


大正2年(1913)竹内久一作

踊台蹴込み 「龍」


大正2年(1913)竹内久一作

■脇障子「日本武尊・須佐之男命」

右の脇障子は熊襲征伐の日本武尊、左は八岐大蛇退治の須佐之男命です。
いずれも明治39年(1906)伊藤則光の作
伊藤則光
慶応2年名古屋古渡に生まれる。八代目早瀬長兵衛(木龍堂元兵衛)の弟子で、新美常次郎(初代彫常)の兄弟子。
この脇障子を制作する前年の明治38年(1905)に中切組力神車が大店坂で転倒し彫刻を破損した際に新美常次郎とともに修理にあたっています。
知多の山車には青龍車以外に作品が見られず、後に浜松に移り伊藤松次郎(彫松)として掛塚中町、横町などの他、遠州各地の屋台に多く作品を残しています。

脇障子 (ハ通り)「須佐之男命」

明治39年(1906)伊藤則光作

脇障子(イ通り) 「日本武尊」

明治39年(1906)伊藤則光作

■前棚四本柱「宝尽くし」

明治24年(1891)名古屋伏見の七宝焼作家川口文左右衛門の作。
鳳凰・桐などの宝づくしの文様が色鮮やかに表現されており、前山の木鼻も同様です。
現在の四本柱と木鼻は平成7年(1995)から10年にかけ名古屋の安藤七宝店にて復元新調されたものです。
川口文左衛門
万延元年(1860)の生まれで、名古屋で活躍した七宝作家。
明治22年(1889)のパリ万博、明治37年(1904)のセントルイス万博に出品し高い評価を得た。

前山四本柱

明治24年(1891)川口文左衛門

前山四本柱(拡大)

明治24年(1891)川口文左衛門

前山木鼻

明治24年(1891)川口文左衛門

蹴込み 「牡丹に石橋」


大正2年(1913)竹内久一作

持送り 「波」


明治24年(1891)八代目早瀬長兵衛(木龍堂元兵衛)

台輪木鼻 「獏」


明治24年(1891)八代目早瀬長兵衛(木龍堂元兵衛)
非常に彫りの深い獏(ばく)の彫刻で、眼はプラチナで出来ています
妻台輪のホゾを出さない構造が独特

ゴマ隠し「菊花」


明治24年(1891)八代目早瀬長兵衛(木龍堂元兵衛)

前山鬼板 「菊花に青龍の金文字」


昭和12年(1937)新美常次郎作

前山懸魚 「子持ち龍」


昭和12年(1937)新美常次郎作

前山桁隠し(ハ通り) 「子龍」


昭和12年(1937)新美常次郎作

前山桁隠し(イ通り) 「子龍」


昭和12年(1937)新美常次郎作

前山太平鰭「神功皇后・武内宿禰」


昭和12年(1937)新美常次郎作

前山蟇股 「恵比須大黒」


昭和12年(1937)新美常次郎作

前山手高欄「波」


明治24年(1891)江原新助

胴山蟇股「牡丹に唐獅子」


昭和12年(1937)新美常次郎作

上山鬼板・懸魚


昭和12年(1937)新美常次郎作
鬼板:雲に石の金文字 懸魚:松に鶴

上山支輪・蟇股「子持ち龍」


昭和12年(1937)新美常次郎作

堂山高欄廻り


明治期 新美常次郎作

↑ページの先頭へ