以下、代表的な人形師について紹介する。
竹田からくりの流れを引くと思われる名古屋の人形師。
犬山祭真先と碧南市大浜中区の乱杭渡りを作った。乱杭渡りの人形は4ケ所にしかなく、そのうち2体を藤吉が作ったことになる。
この他に、犬山祭西王母(写真102)の「綾渡り」、同じく咸英の「倒立」など離れからくりの作例を残している。
また、四日市の大入道の建造にも参加したといわれている。
天明頃、名古屋で名人として知られた人形師。
名古屋市戸田祭には、その作品が多く残っている。
中でも四之割(写真103)の「片車唐子」は、大唐子に片車された小唐子が上から下がった綱に片手でぶらさがって肩からはずれると、空中で動き出すという不思議なものである(時計仕掛けで、肩からはずれると動き出す)。
初代の隅田仁兵衛栄重、2代目の隅田仁兵衛真守の2代に渡って、多くのからくり人形を残した。
栄重の作例として小牧秋葉聖王車の大将人形(写真104)、羽島市竹鼻町の上城町と大西町の人形、真守の作例として養老町高田祭の林和靖車のからくり人形、美濃祭靭車の人形などがある。
知多半島美浜町上野間祭の「源氏鳥帽子折之段」のからくり人形芝居を作ったほか、名古屋市紅葉狩車の「紅葉狩」 、東海市横須賀祭本町の「かめ割り」(写真105)など、ストーリー性のあるからくり人形が残っている。
江戸中期から現在まで9代続くからくり人形師。初代は享保18年(1734)頃、東照宮祭林和靖車の鶴のからくり人形(戦災焼失)の操作指導のため京都から名古屋に移り住んだ。
以後、代々からくり人形を作り続け、特に幕末から明治にかけて活躍した五代目、六代目は非常に多くの作品を残している。
また戦後名人として知られた七代目は幼い頃に先代をなくして9才で名跡を継ぎ、独力で修行して優れた作品を残したほか、故障して動かなくなっていた多くのからくりを復活させた。
八代目は若くしてなくなられ、現在は九代目が活躍中である。