東海地方に本格的な山車が出現した時期は室町時代と考えられている。尾張地方では、戦国時代には既に津島天王祭、熱田大山祭の二つの大きな山車祭りが行われていた。
この二大祭りには船(津島)と陸上(熱田)の違いはあるが、いずれも大山と車楽(だんじり)の2種類の山車があった。この二つの祭りはいずれも明治初期までこの形態を留めていた。
ところが、熱田大山祭はまもなく廃止され、津島天王祭も大山が廃されて車楽だけになってしまった。
一方、江戸初期の慶長15年(1610)に建設された名古屋の町では東照宮祭と若宮祭が始められた。後に東照宮祭では9輌、若宮祭では7輌の山車が曳かれるようになった。
この二つの祭りは、東海地方の山車祭りに多大な影響を与え、多くの祭礼が東照宮祭、若宮祭を真似て初められた。
これらの祭りに三之丸天王社の天王祭を合わせて名古屋三大祭りと呼ぶ。しかし、東照宮祭、若宮祭とも戦災で山車を失って衰退し、現在往時の面影はない。また、三大祭りのもう一つ、天王祭も明治時代に衰退してしまった。
このように尾張の中心である名古屋には名古屋三大祭り、熱田大山祭と大きな山車祭りがあった。しかし、そのいずれもが明治以後衰退し、原型を失ってしまった。
これらの祭りは、中京地方の山車祭りをリードしてきた存在であり、これらが失われたことが中京地方の山車のつながりをわかりにくくしている。
近代になってから電線、人出不足、山車焼失などによって絶えた山車祭りは非常に多い。しかし、この章では名古屋の祭礼を中心に、かつて東海地方を代表する大祭が変化、衰退、消滅した例を紹介し、ありし日の姿を振り返ってみたい。