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1.新町長老の話 |
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昭和3年に名古屋の遊廓の有った所より300円で購入した。 |
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「千歳町より東方の堀川に至る家並みは物の本によると自由な気風を持つ宗春が藩主の座につくに及び、芝居小屋を建て、遊女町を開き、商工業の振興に尽力をするなど、彼の積極的経済政策は名古屋を有数の大都市へと発展させた」と野田家に記録されており新道地区〈千歳町)から山車を購入したとしても長老の話と辻褄があう。
又、300円で購入した金額は、筒井町の神皇車は明治20年に250円で、常滑市西ノロが張良車を明治11年に150円で、美濃市常磐町が靱車を明治30年に300円で、美濃市泉町が浦島車を950円(神皇車、靭車は道具屋から購入した可能性が強い)で購入していることからすれば、新町の応神天皇車は格式のある山車で有ったことが推測出来るし、又、道具屋に入つていた可能性もある(山車に人形が付いていなかった)。 |
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昭和3年に山車を購入してから現在迄、山車の修理は実施しておらず山車の空木建ちは購入時のままである。大幕は平成2年に新調しているが飾り金具は購入時のままである。
購入時、上山には人形は乗せられておらず応神天皇と女官の2体を名古屋の松坂塵で購入し乗せた。その為、上山の応神天皇、女官の人形はからくり仕掛にはなっていない。(但し女官は頭のみ動く)
現在、前柵に乗せられている前人形と樋は六代目玉屋庄兵衛の弟子の内藤金次郎が後に製作した物である。 |
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2.古文書調査 |
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新町の古文書は処分されており現在資料は無い。又、神社内に残されている資料を見せて頂くが新町の応神天皇車購入に関する記録は記述されていない。 |
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3.山車格納庫調査 |
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収納箱は多々有るが墨書きが残されているものはほとんど無い。但し強いていえは、何を収納する箱かは不明だが明治27年の製作を表す墨書きが残されているものが二箱だけ発見された。墨書きが残されていないのは不可解ではあるが、明治27年頃、山車に何か動きの有ったことは感じとれる。新町が明治34年に旧車を購入した際に付いてきたものなのか(山車が焼失している為考えにくい)、千歳町で新調されたものなのか、町名の墨書きがない為分からず。又、ほとんど未使用の状態で雨障子が収納箱に保存されていた。 |
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4.山車調査 |
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舞楽の舞台を感じさせる朱塗の高欄と階段の造りから新町が購入する前は舞楽の人形が乗せられていた山車の可能性が強い。 |
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若宮祭祭車門前町の陵王車と同様に高欄が朱塗である事から名物祭車を真似ている(門前町の陵王車は朱塗の高欄が有名であった)。 |
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天王祭に属していたと思われ、大幕の飾金具が天王様の紋である事からすれば、見舞車(又は城下近在町村天王祭の山車)の可能性が強いと思われる。 |
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5.新町山車調査総評 |
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今回の現地調査をした結果、墨書き等の証明になる様なものの発見は出来なかったが長老の話、山車の形状等を総合して判断すると新町の応神天皇車は千歳町の陵王車を譲り受けた可能性が強いと思われる。
その際に人形は譲り受けておらず千歳町に残されて戦災で焼失したかどうかは不明である。 |
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神輿渡御の図(部分) |
中ノ筋町の陵王車と同様に前棚と高欄に
階段が架けられ舞楽の舞台を連想させる. |
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■ここまでの調査のまとめ
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田原町新町応神天皇車は、墨書きが未発見である為推測にはなるが、歴史的且つ千歳町、田原町新町の現地調査等を総合して考えると、千歳町中ノ筋の所有していた陵王車を昭和3年に新町が譲り受けた可能性が強い。明治年間に枝郷町所有の散手車を譲り受けた為に千歳町では陵王車が不要になり新町に売却したと思われる。以上の事が事実であれば須佐之男神社神輿渡御の図に描かれている中ノ筋町の陵王車は名古屋三大祭に関係した新たな山車の発見であり大変な喜びである。田原町新町の応神天皇車の解体調査を待つことにしたいと思います。 |
平成13年12月吉日 |
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