尾張の山車まつりへ [中ノ筋町陵王車調査報告書考]−[5/11]

■枝郷町と散手車

昭和9年頃の散手車(千歳町の所有)
郷土の山車写真集より
伊勢門水の「名古屋祭」によれば見舞車の項に、郷(郷里)散手車と書かれており、明治維新を迎え三之丸天王祭が衰退するするまでの散手車は郷が所有していたと判断すれば、散手車は明治初年代から明治42年の間に千歳町へ譲渡されたことになる。名古屋市史地理編等によれば、枝郷町はもとは郷(郷里)と言い天王坊(真言宗安養寺:三之丸天王社の東側に位置した)の寺領の村落であり名古屋村内にあった。
明治3年、本社と分離して天王坊は寺領を没収(明治5年廃寺)されており、郷の村落における経済状況に変化が生じたことが考えられる。又、明治16年には枝郷町内に新道学校が建てられ、この年代における枝郷町は町の変革の時期を迎えており(明治11年12月小杁町を併合)散手車が千歳町に移されたのはこの時期と判断する事も出来る。
よって明治25年の須佐之男神社神輿渡御の図に枝郷町の散手車が描かれていないのは納得出来る。次に散手車の詳細を述べることにする。


《散手車》 純名古屋型(陵王車は階段がかけられている)
◆人 形 雅楽の散手より取材したもので、荘厳な衣装を着て鳥兜をかぶった人形が始めは荘重な舞をするが途中後を向いた途端に面をつけ、手に矛を持ってテンポの早くなった勇壮な曲に合わせて派手に踊る。大将人形には新羅三郎を据へる。
◆水引幕 渡辺清の下絵で白羅紗に山鳥の縫いちらしである。
◆大 幕 猩々緋に門前町の陵王車の如く金糸で簾の縫を施し見送幕には柳沢吾市の書が刺繍されている。

上記の様に散手車の特長と須佐之男神社神輿渡御の図に描かれている中ノ筋町陵王車の形状を比較すると山車の形状が違うこと、からくりの人形の題材及び所作が違うこと、大幕が違うこと等、又、現地住民の記録、情報等を総合して考えると明らかに「散手車」とは別に「陵王車」が存在していたことになる。
千歳町では古くから陵王車を所有していたが明治年間(3年〜42年)に枝郷町から散手車を購入し陵王車に因み門前町祭車を真似た装飾を施したのではないかと思われる。その後旧車の陵王車を田原町新町に売却したと推測する。
次に形状が類似する田原町新町応神天皇車の調査を報告する.

■参考資料
     【参考資料1】
   尾張年中行事絵抄
新道天王祭を描いており、山車の数は9輛程が確認出来る。山車の形状は名古屋型である.
【参考資料2】
尾張全図 上宿及巾下ノ二
(明治2年)
【参考資料3】
地籍図 旧名古屋村 新道界隈 (明治17年)
詳細(71.3Kb) 詳細(89.9Kb) 詳細(85.7Kb)
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