尾張の山車まつりへ [中ノ筋町陵王車調査報告書考]−[4/11]

■千歳町現地聞取り調査
中ノ筋町の町名は古い資料を調べても存在しなく、中町(大伝馬町→北駅町)と千歳町中ノ筋(後に千歳町)が存在するだけである。この2町に照準を絞り中ノ筋町の存在の聞き取り調査を行なう。富士浅間神社をはじめ、北駅町付近の住民2人に町名と山車の存在を確認するも世代が変わっていて往時がわからず、住民も戦後住み着いた人がほとんどでこの地区での確認は不可能と判断した。
次に千歳町の調査に切り替え、当町へ移動中に菊井町住人の磯谷氏(大正3年生れ)と出会い、千歳町に山車が存在したかを尋ねたところ小学生の頃(大正末期)千歳町は山車を曳いていて、小さな町内なのによく山車が曳けるものだと不思議だったそうです。山車の台数は定かではないが新道地区には6〜7輌を記憶しており、磯谷氏は祭町内ではないので小伝馬町の湯取車の綱を引っ張っていたそうです。
磯谷氏の証言で千歳町に山車が存在した可能性を強く感じ、千歳町の聞き取り調査に胸を弾ませた。最初に丸福製菓(株)の大奥様に山車の存在を確認するも大奥様は当時新道3丁目に住んでいて翁車で囃子方の経験があるという。しかし千歳町に山車が存在した記憶はなく、昔から在住の老夫婦の野田宅を紹介頂き訪問することになった。
次に野田宅での調査内容を詳しく報告することにする。御主人は明治42年生れの92才、奥様は大正4年生れの86才で野田宅は戦災前この地の大地主である。御主人はこの地の歴史を研究しており調査に重要な部分の資料を見せて頂き教えて頂いた。


旧千歳町は笈瀬川物資を名古屋城の位置まで運ぶ農道だったと思われ清洲越しに際し、清洲より引っ越してきた岩間家(尾張藩のお茶坊主遠州流)と滝川文ノ守の下屋敷がこの道筋に建てられ、その後浅野家が岩間家の西隣に、その後野田家が移り住んで家並み出来上がって行つた。当時は愛知郡那古野村字下名古屋という地名だった。
旧千歳町は北ノ筋、中ノ筋、南ノ筋の3本の筋からなりたっており、中ノ筋を中心に家並みが出来上がっていった。
千歳町中ノ筋には郷車(枝郷町の地名の郷ではない)と名付けられた山車が古くからあり祭礼の際、新道筋各町の山車の最後尾につき曳いたそうで細い中ノ筋から新道筋への90度の方向転換が見せ場だった。前飾には郷と書かれていたそうです。野田氏の記憶が正確であれば明治42年(御主人の誕生年)以前に千歳町に山車が存在した事が事実となる。これは陵王車ではなく散手車が郷(枝郷町)より千歳町に譲渡された事を裏付けるものかもしれない。郷土の山車写真集に掲載の新道地区5輛と田原町新町の応神天皇車の写真をお見せしたが、実際山車を見たのは子供の頃(大正時代)で形状に記憶がなく、陵王車と断定する事は出来なかった。
野田氏は子供の頃(大正期)の記憶しかなく、昭和に入ると千歳町は 山車を曳いていない可能性がある。野田夫妻は昭和5年に結婚され、嫁いで来られた奥様は祭礼で山車を曳く様子を見たことが無いことから昭和5年以降山車は曳かれていないと思われる(是は誤りで昭和9年は十余年ぶりに全輌{千歳町も}参加している、祭礼は東照宮祭と同様昭和13年以降は中止された)。

いずれにしても須佐之男神社神輿渡御の図に見える中ノ筋町とは千歳町中ノ筋のことであり、陵王車と断定は出来ないが、山車が存在していたことは事実となった。
次にその図に描かれていない枝郷町(郷里)の散手車を語らなければならない。なぜならば伊勢門水「名古屋祭」の新道天王祭の項では、散手車は千歳町の所有になっているからである。
「名古屋祭」が発刊されたのが明治43年であるから、散手車はその年より以前に枝郷町から千歳町へ移されたことになる。一時的に千歳町は山車を2輌所有したことも考えられる。次では枝郷町及び散手車を調べることにする。
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