[中ノ筋町陵王車調査報告書考]−[3/11] | |
■須佐之男神社神輿渡御の図に見える天王祭の山車 |
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新道天王祭は明治15年頃浅間町の富士浅間社の臨時祭に奉曳することとなった。新道天王祭は新道6丁町の祭礼であるから中ノ筋町(新道5丁目の一部と千歳町)の陵王車が祭礼に加わり山車が6輌になっても決しておかしくはない。名古屋市史地理編〈大正5年)によれは千歳町は広井村内にて万松寺領と称し、その後千歳町上ノ筋、中ノ筋、下ノ筋となり明治4年に千歳町となった。明治11年12月には広井村より分裂して名古屋区に入るとある。 尾張年中行事絵抄によれば、新道天王祭は昔、巾下新道天王祭(3丁目以北〉 と広井新道天王祭〈4丁目以南)に別れて行なわれていたものが、後に統合されたと記載されており、中ノ筋町の陵王車が存在していたとすれば、万松寺領の浦島車と共に広井新道天王祭系の山車ということにになる。ここではこの中ノ筋町の陵王車を中心に考えることにする。 この図に描かれている陵王車の構造上の一番の特徴は名古屋型ではあるのに前棚と上山の高欄とに階段がかけられていること、これは田原町新町の応神天皇と類似するところである。 又上山には雅楽の舞をする人形と京極太政大臣宗輔公と思われる(笛を吹いている)人形の2体が乗せられており若宮祭の名物祭車の陵王車を真似て造られた事が考えられる。新道地区の山車がいつ頃造られたか、歴史をさかのぼってみることにする。金明録の文政元年(1818)を引用すると
又この年より新道を曳く事になり大変な振合だったという。文政5年(1822)を引用すると
ここに記載されている白林寺領とは名古屋府城志によれば、此寺顧は万松寺領と入合いしており村落は万松寺町の西にあったと記載されており、白林寺領車とは千歳町中ノ筋の陵王車を、中通り町々車とは新道の山車5輌を指すのかもしれない。 又、白林寺は若宮八幡の東隣にあり、白林寺領が若宮祭類似の山車を造ってもおかしくはない。次に文政7年〈1824〉の「青窓紀聞」によると下記の様に御城下近在町村における山車の所有状況を表している。 巾下(12輌)広井〈10輌斗)下小田井(4輌)出来町(3輌)杉(1輔)押切(2輌) 浄明寺前(1輌)土呂町(3輌)益屋町(1輌)車ノ町(1輌〉 からくり人形を乗せた本式の山車が多数に存在した事は事実であり、巾下には新道の5輔を含め12輌存在しているし、尾張年中行事絵抄には9輌程の山車が描かれていることからすれば、千歳町中ノ筋に陵王車が存在していた可能性はある。次に千歳町中ノ筋〈千歳町)の現地調査を報告する。 |
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