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川中島の合戦は、戦国時代、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が戦ったものです。知多で見られる山車彫刻の題材として、戦国時代ものは数が少なく、珍しい題材といえるでしょう。 半田成岩東組旭車蹴込みや半田西成岩彦洲組日之出車前山太平鰭に見られます。これらの彫刻の場面は川中島の合戦の中でも上杉謙信と武田信玄が一騎打ちをしている場面です。こうした場面構成を踏まえて、川中島の合戦について、ご紹介いましょう。 ・川中島の合戦 戦国時代、甲斐の武田信玄は領土拡大を推し進め、北国は信濃を平定しました。さらに、北進し武田は上杉謙信が治める越後へ、攻入ります。 川中島は越後と信濃の境にある千曲川と犀川に挟まれた地域で、上杉と武田は十年余り小競り合いを繰り返し、主な戦いは五回、知られています。 最も、激しかったのが第五戦で、一般的には、川中島の合戦といえば、この第五戦(八幡原の戦い)を指すようです。 ・総大将一騎打ち、三太刀七太刀伝説 武田信玄と上杉謙信が一騎打ちをしたというのは、五戦の内でも、第四戦の妻女山の戦いです。敗戦が色濃くなった、武田本陣に、頭巾を被った上杉謙信が一騎で突進してきます。本陣で床机に座していた武田信玄に、上杉謙信は切りかかります。その時、武田信玄は鉄製の軍扇で受けてたちます。この時、謙信は三度切りつけることが出来ましたが、後で見てみると、軍扇には七箇所の刀傷が残っていたということです。 こうしたことから、三太刀七太刀の伝説が生まれました。史実では、謙信と信玄の一騎打ちは、無かったというのが、定説のようです。ただ、両雄が対決するほどの激戦であったことから、生まれた説話のようです。 |
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