[尾張の山車まつり]−[祭吉の山車祭講座][越後獅子]

第125回 越後獅子(角兵衛獅子)

 東海市大田「市場組」の上山人形は、大小の唐子人形が演ずる離れからくりで、宙吊りになった小唐子が大唐子の肩に倒立するという妙技を見せてくれます。唐子人形によるからくりが多い中で、市場の大唐子は頭に獅子頭を載せ、胸には太鼓を付けるという、他には無い独特の格好をしています。これは、越後獅子(角兵衛獅子)を模したものです。今回はからくりの妙技と越後獅子の関係について、ご紹介しましょう。
 越後獅子については、前回の「布ざらし(越後獅子)」でご紹介しましたが、越後獅子は蒲原獅子とも呼ばれ、江戸では角兵衛獅子の名で呼ばれていた大道芸で、越後の国は西蒲原郡月潟村から発生したことから、その名があります。獅子頭を被った子供たちが大人、いわゆる親方が打ち鳴らす笛や鉦に合わせて様々な曲芸を見せて廻る、一種の旅芸人でした。その歴史は200年にも及ぶといわれ、その起源ははっきりしていませんが、諸説ありますので、ご紹介したいと思います。

・ 仇討ち説
 陸奥の国から越後の国月潟村に移り住んだ角兵衛というものがおりました。角兵衛には角内と角助という二人の息子がありました。ある晩のこと、何者かが角兵衛の家に押し入り、角兵衛を殺してしまいました。横で寝ていた、角内と角助は目を覚ましましたが、ことに気づいて、息を殺して見ていました。犯人は顔はわかりませんでしたが、足の指がないことだけは見ることが出来ました。残された二人の息子は、大衆の前で逆立ちをして、犯人を探すことを思いつき、「あんよ(足)の指の無いもの、気をつけて見れ」と言い合いながら、逆立ちの芸を見せ、諸国を巡り、歩いたということです。(起源だけで、事の結末、つまりは仇討ちが出来たか、出来なかったかは、わからないようです。)

・ 水害飢饉、口減らし説
 月潟村は中之口川の沿っており、古くは、毎年のように川の氾濫があり、村人は苦しんでいました。これを、憂いた角兵衛が獅子舞を考案し、農業をしながら、村の子供たちに教え込み、口減らしのため、子供たちを連れて、諸国を巡り、歩いたということです。

以上の二説が月潟には伝わっているようです。どちらも、角兵衛獅子の名前につながる、角兵衛なる人物が登場します。江戸ではあちこちで角兵衛獅子がみられたようですから、後々には二人だけではなかったようです。私が思うに仇討ち説があって、後に口減らしで巡業して行ったのが自然な流れのようです。
 この越後獅子、江戸時代では宝暦年間くらいから盛んになりはじめ、文化年間に歌舞伎芝居に取り入れられてから(講座「布ざらし」参照)益々、広く親しまれるようになりました。しかし、文明開化の明治に入り、大道芸としての児童の旅巡業は虐待と見られ、衰退の一途をたどったということです。現在では郷土芸能として月潟の子供たちによって伝承されているようです。
越後獅子の妙技は跳んだり、跳ねたり、逆立ちしたり、肩車したりと200種類にも及んだといわれています。越後獅子の格好の離れからくりが残っていることから考えても、越後獅子の子供たちの妙技が、離れからくりの妙技に生かされていると考えてもよいのではないでしょうか。

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