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二十四孝とは古く中国で親孝行であった二十四人の話で、中国の元の時代に郭居敬によってまとめられました。日本にも伝わり、江戸時代には寺子屋での道徳教育にも使われ、広く庶民に親しまれていたようです。 さて、この二十四孝の物語、山車彫刻をはじめ各地の神社仏閣彫刻に題材と使われています。今回は二十四孝の中でも知多の山車彫刻に唯一見られるタン子(下記注)についてご紹介しましょう。(神社仏閣では様々な場面が彫刻として彫られています。立川に至っても知多以外の各地の山車にはタン子以外の逸話も彫っているのですが、知多ではなぜかタン子のみです。彫常は立川の彫刻を意識して知多の山車彫刻を彫っていますから結果として他の逸話を彫ることがなかったのではと推察されます。)
中国は周の時代、タンという人がいました。タンには年老いた両親がおり目を患っていました。眼病には鹿の乳が効くということを知り、タンは両親に鹿の乳を飲ませるために一計を案じます。それは鹿の皮を手に入れ、それを被ることによって鹿の群れにまぎれて乳を取るということでした。 当初はタンの考えも上手くいき、両親に鹿の乳を飲ませることが出来ました。ところがあるとき、いつものように鹿の皮を被って、鹿の乳を取っていると猟師に出くわし、タンは猟師に撃たれそうに →タン子の子は有徳の人に付けられる敬称です。孔子、孟子、荘子など。 さて、こうした話をふまえて、立川と彫常の山車彫刻を見てみましょう。立川が彫った中切組の太平鰭はタンが猟師に事情を説明する場面です。彫常は成岩西組の壇箱という山車彫刻でも代表する大彫に持ってきています。ここではタンが親へ薬湯(鹿の乳)を差し出す場面です。その傍らで猟師が見守っているのが印象的です。立川の彫刻も含めて神社仏閣の彫刻はタンと猟師の場面です。彫常は他に無い、薬湯を親に捧げる物語の中心、親孝行の名場面?を配置して、この作品を彫り上げています。こうした立川との彫り方、配置の異なりは「ハンカイの門破り」でも同様のことが言えるでしょう。 参考までに二十四孝は虞舜、漢の文帝、曾参・閔損・仲由・董永・子・江革・陸績・唐夫人・呉猛・王祥・郭巨・楊香・朱寿昌・黔婁・老莱子・蔡順・黄香・姜詩・王褒・丁蘭・孟宗・黄庭堅の話です。 |
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注:タンの文字は「炎にリットウ」ですが,パソコンに無い文字ですのでカタカナ表記しております. |
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