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天保年間の建造とされる亀崎田中組、上半田南組の山車の置台輪には引戸格子のものと思われる溝が残っており、引戸格子の変遷を覗い知ることが出来ます。 古くは幕上格子が無く幕を下ろしていました。大浜の山車は現在でもありま
引戸格子は二枚の引戸で構成され、人の出入は山車の幅の半分しか取れず、出入も困難です。時代を経るにしたがって幕上格子が考案され、そして幕上格子が固定化され、引戸格子は姿を消して行ったようです。現在、多くの山車で引戸格子の部分に囃子方が座って囃していますが、囃子を良く聞こえるようにしたのも一つの要因とも思えます。山車の古い形式を伝えるのが引戸格子です。 補足「下乗考(幕を下ろしていたわけ)」 さて当初山車が幕を下ろしていたことについて少し考えてみましょう。名古屋では藩主の祭礼閲覧で名古屋城内への山車の曳入れの際には幕を下ろしていたといわれます。これは藩主の前で山車という車に乗るのは無礼ということですが、からくり人形に囃子がありますから山車に乗らないわけにはいきません。そこで、人の姿が見えない様にするため幕を下ろしたわけです。(他の場内曳入れの無い地方の山車でも古い絵図などでは幕を上げていませんから一概には言えない様です。) 現在、神社の社頭に「下乗」といった看板がありますが、神様の前では乗り物から下りなさいということですが、これも同様です。知多では城内曳き入れといった例はありませんし、現在、大谷などは神社境内では山車の幕は上げています、下ろすのは曳き廻しのときだけです。これは神様の前とか関係無く、神聖な山車を曳くときに乗っている人の姿を隠す為と思われます。 また、古くはからくり人形や囃子の技術は組の財産として秘匿されていましたから、そうした技術を盗まれない(見られない)ようにするためもあったと考えられます。囃子がない山車組などは他地区の囃子を盗みにいったといわれますから。 |
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