[尾張の山車まつり]−[祭吉の山車祭講座]−[彫刻題材―項羽と劉邦・鴻門の会(ハンカイの門破り)] |
乙川殿海道山源氏車、協和砂子組白山車の壇箱に彫られている「ハンカイの門破り」は紀元前一世紀頃、秦が滅び諸侯が覇権を争い、そして最終的には劉邦が天下を統一し漢帝国を打ち立てますが、秦滅亡直後の鴻門の会での一場面です。中国の歴史書「史記」が出典ですが、日本では項羽と劉邦といったほうがなじみ深いかもしれません。多く、小説として書かれています。
源氏車は題材として「ハンカイの門破り」と名づけられていますが、物語の流れでいう「鴻門の会」の一場面であるため、彫刻題材としては便宜上、鴻門の会としハンカイの門破りは副題としました。 始めて中国を統一した秦の始皇帝は多くの重税を庶民にかけるなど暴政を極めます、焚書坑儒などは歴史的にも有名ですね。始皇帝が亡くなり、二世皇帝の時代になると、各地で反乱が勃発します。そして、秦に滅ぼされた六国(楚、魏、韓、燕、趙、斉)が王を立て再興をはかり、秦に反撃していきます。 もっとも早く王をたてたのが楚で、早くから多くの将兵が集まっていました。楚の王位継承者を探し王を立てたのが代々楚の武将となった項家の項梁でその甥が項羽です。宿場役人であった劉邦も機に乗じ一軍を率いて楚軍に合流しています。その後、諸侯の中でも力を持った項羽と劉邦に楚王から秦への進撃の命が下ります。 東西二手に分かれ進撃しますが、両名には先に秦の都咸陽に入ったものがその地関中の王とするとの確約がありました。兵力では勝っていた項羽軍ですが投降した者も処刑するといった惨忍な戦法で強い反撃に会い次第に進撃が弱まります。それに対し戦を交えず、降伏を勧める柔軟な劉邦軍は快進撃をし、項羽軍に先んじて関中に攻め入り秦を降伏させます。 劉邦は楚王の約束とおり関中王を名乗りますが、兵力、家柄に勝っていた項羽にとっては許せるものではありません。劉邦を攻めるように進軍をしようとします。その際、項羽の叔父にあたる項伯が劉邦軍に付きしたがっていた親友の張良を助けんがために、知らせに走ります。項羽軍の進撃をしった劉邦はとてもかなわないと、項伯に関中は項羽に明渡し、臣下となる旨を伝え、自ら釈明に項羽軍の陣に行きます。項羽軍が陣を張っていた鴻門で行われた項羽と劉邦の会談が鴻門の会です。劉邦の項羽への釈明も終わり、酒宴が催されます。項羽の軍師范増は劉邦が後に項羽にとって驚異的な存在になると見ぬき、この場で殺そうと計り、項荘に酒宴で剣の舞をさせ、好きを見て殺すように指示します。劉邦に付き従っていた親友張良を助けようと項伯が舞の相手を買って出ます。劉邦を殺そうとする項荘と、劉邦・張良を助けようとする項伯の剣の舞のぶつかりあいが繰り返されました。白山車の壇箱正面彫刻はちょうどこの場面です。次第に項伯に疲れが見え、このままでは防ぎきれないと見た張良は厠に立つ振りをして、陣の外で待機していたハンカイに劉邦の危機を知らせます。范増の計で将兵は陣の外で待たされていたわけですが、劉邦の危機を救おうとハンカイは陣門を破り、門兵を押しのけ酒宴の席へ侵入します。源氏車の壇箱正面、白山車の壇箱側面はちょうど、この場面です。突然の侵入者ハンカイによって剣の舞は終わってしまいます。無礼である。と怒った項羽はハンカイに何事かと問いただします。それに対しハンカイはめでたい席に自分たち共の家来には何の振る舞いもない。空腹が我慢ならず陳情に来た。と返答します。項羽も悪かった。と納得し、ハンカイに酒と肉を与えます。この時、ハンカイは大杯で酒を飲み、盾の上に肉を置いて剣で切って食べたと言われています。彫刻のハンカイも盾を抱えていますね。その後、項羽とハンカイは酒の飲み比べをしますが、項羽が酔いつぶれた隙に劉邦は自分の陣に引き返し難を逃れました。 ざっと、紹介しましたが、項羽と劉邦の物語は大変な長編です。 もっと詳しくお知りになりたいかたは項羽と劉邦関連のホームページもありますので、そちらをご覧下さい。 |
[尾張の山車まつり]−[祭吉の山車祭講座]−[彫刻題材―項羽と劉邦・鴻門の会] |