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当初は単なる箱状で装飾も簡素でした。彫刻も平面的なものだったようです。(武豊東大高など)ただ、山車の各部構造部分からみると比較的古い時期から彫刻などの装飾は多く入れられ発達経緯は早かったと考えられます。山車の前面で非常に目に付きやすい部分であることからそうなったと推察できます。 古式の山車である美浜町河和中組の山車は乙川南山の旧車で建造は宝暦年間とされていますが、その壇箱には「蛤の夢見」が彫られ、塗りではありますが全体的に現在の壇箱に近い感の彫刻です。しかし、堂山高欄部分をみると単なる持送り状の肘木のみで斗形、蛙股などの構造は見られません。 それでは、壇箱の構造の変遷を見ていきたいと思います。当初、単なる箱型だった壇箱は奥行きを持たせて全体的に彫刻が入れられていきます。初めは奥行きも少しで徐々に深まっていったと考えれれます。 碧南大浜(亀崎田中組旧車)の壇箱は多少奥まっていますが、まだまだ箱型で彫刻も平面状です。その後、奥まった彫刻が入れられます。上記の河和や碧南市新須磨(亀崎石橋組旧車)や知多市南粕谷(亀崎西組旧車)などがそうです。 その後、立川によって白木の彫刻が彫られます。亀崎中切組、田中組がそうですがこれらは、全体の大彫の彫刻を上板と下板ではさむような感じで現在多くの山車で見られるような上部を斗形で組まれた壇箱ではありません。瀬川治助作の東組も同様な造りです。明治に作られた石橋組の壇箱もこうした形で斗形がない当時の壇箱形式が受け継がれています。 亀崎の中でも西組は異なり御殿造です。この御殿造の壇箱は宮中御殿の中に見える感じの壇箱です。壇箱の一形式として各地の山車に付けられていきます。この御殿造りの壇箱は別の項で詳しく紹介します。 下半田北組の壇箱は立川の唐子遊びは御殿造の壇箱の彫刻に見られるように個々に置かれた構図ですが壇箱下縁に欄干もなく御殿造ではありません。注目したい部分は上部の斗形です。現在多く見られるものよりも段数が少なく簡素です。この後、斗形の段数が増え、彫刻も全体に彫られていいたようです。 |
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