[尾張の山車まつり]−[祭吉の山車祭講座][真澄の鏡]

第40回 真澄の鏡

 知多型の山車の前壇には様々な飾りがしてありますが、中には鏡が飾ってあるものがあります。乙川南山八幡車や岩滑の2台の山車,阿久比町萩・大山車な
萩・大山車
どに見られます。神社の神殿の前に置かれていることもあります。
 今回はこの鏡についてお話しましょう。この鏡、神鏡とかいうように神様をお祭りした所に置かれます。丸い鏡で太陽を表すとも言われます。台座は雲とか波が彫られ、日の出のように見えます。
 古く、鏡は非常に貴重なもので御神体(御霊代)としてお祀りしてきました。実際には眼に見えない神様を高価な鏡を神様の体に見たててお祀りしたのです。神「カミ」は鏡「カガミ」を縮めた言葉とも言われます。神話には太陽神、天照大神が
亀崎・力神車
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に「この鏡を自分のようにお祀りしなさい」といったお話があります。この鏡が伊勢神宮で代々祀られています。元来、最も尊い天照大神を祀る鏡が次第に神様全体の象徴として祀られるようになったと思われます。
 それでは神道の思想、穢れを祓うという考え方からこの鏡を見ていきましょう。この鏡は心を表すと考えられます。「真澄の鏡」ともいい。曇りのない非常に澄んだ鏡を意味します。ひとの心は埃が積もるように穢れがたまってきます。曇った心では物事のありのままが見えなくなって、偏った見方になってしまいます。実際、鏡も曇ったら、ありのままを映せませんよね。偏った見方とは自分さえよければというエゴですね。そうした生き方では幸せな生活ができません。ありのままが見えませんから、悩まなくていいことを悩んでしまうんですね。そうした曇った心ではなく、鏡のように澄んだ清らかな心が大切なんですね。
 神道の行法に「自霊拝」というものがあります。鏡に映った自分自身を神様のように拝むというものです。これは自分自身のエゴを捨てて、神様のように皆の為に生きる自分に成らなければいけませんから結構大変なことです。こうして以前書きましたが神人合一、神様と一体の心になる。穢れを祓って清らかな心になるんですね。神社にお参りするのも、これに通じるものがあると思います。
 どうぞ今度、神社にお参りした時には自分自身の生活を振り返ってみてください。周りのことを考えず自分勝手な生き方をしていないか?と。神様はお願いばかり頼ってばかりの人よりも、自分自身を振り返って反省(穢れを祓うこと)ができる人をきっと助けてくれるはずです。

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