八王子天王社は名古屋城が築城される以前には,現在の三の丸付近に亀尾天王社(現那古野神社)、若宮八幡宮と共に祀られていました. 慶長15年(1610)名古屋城築城の際,若宮八幡宮とともに城外に遷座することとなり、籤で若宮は城下の南に、八王子天王社は名古屋城の裏鬼門にあたる現在地に遷座されたと伝えられます. そのため、江戸時代にはこれら亀尾天王社、若宮八幡、八王子天王の祭礼は同一日(6月15日)に行われていたほど密接なつながりがあったようです. 『尾張年中行事絵抄』によると、このあたりの地名は当時では西春日井郡西杉村でしたが、名古屋城下の志水町から町が続いていたため,「志水の八王子」とも呼ばれていたようです. 八王子天王社の祭礼には、戦前まで「石橋車」と呼ばれる山車が曳かれており、惜しくも戦災で社殿とともに消失しています. 『尾張年中行事絵抄』(下図)には八王子天王の祭礼が描かれ「人形機関(からくり)の車一輌あり」と書かれており、山車祭りが行われていたことが判ります. 一方、江戸時代末期の慶応元年(1865)に,中之切所有の山車を譲り受けたのが,現在ある牛立天王社の「牛頭天王車」です. 『尾張年中行事絵抄』には山車が1台しか描かれていません.慶応元年に八王子から牛立に山車を譲渡したことと、戦前まで八王子には「石橋車」と呼ばれる山車が確かに存在したことは間違いないようです. 八王子には当初より2台の山車が存在したのか、それとも牛立に現「牛頭天王車」を譲渡後に新たに「石橋車」を買い入れたのか、謎ではあります. |
尾張年中行事絵抄より |
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