車山名「梅梢戯」は,唐子が梅の梢で戯れるからくりから付けられたものです.また,本楽祭にからくり人形を奉納する際,梅梢戯は上山勾欄に御神酒を供えることを慣例としてます.
車山の彫刻は,名古屋の彫師早瀬長兵衛の作で,水引の「珊瑚取り老人」の下絵は神原徳輝(鳳章斎)が描いたものです.
この車山は13輌の中でしんがりとなっていますが,これは車山の創建順位ではなく,巡行届が一番最後になったためだといわれています.
車山の歴史
延宝2年(1674)より車山を出し,からくりは「七夕二つ星」でしたが,文政10年(1827)玉屋庄兵衛により「梅渡り」のからくりが作られ,このからくりはその後現在に続いています.
車山は明治10年(1877)に車輪と車軸を除いて,三層が新しく建造されました.制作費は当時の金額で総額848円余りにもなりましたが,この支出は町内の人々にとって大きな負担であり,町所有の家屋を売却したり,講をしたり,旧車山の売却などをして費用を捻出したそうです.
昭和51年(1976)にからくり人形が7代目玉屋庄兵衛によって修理されています.また,昭和53年(1878)には心棒・梶棒そして上山四本柱が総額400万円で新調されました. |
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