本町組・北町組の旧山車蔵1
本町組に『車庫改造記』と題された板書が保存されている.
平成11年に取り壊された先代の本町組山車蔵が建造された時に書かれた由緒書である.
愛宕神社境内にあった車庫(山車蔵)が、大正11年(1922)に立ち退きを命じられ、困っていたところ坂正臣先生の寄進により蔵を建てることが出来たのだという.(寄進地は現在北町組の山車蔵が建っている所)
その日程は、6月1日地鎮祭を行い、6月8〜9日の両日で山車が解体され、その空になった本町組の旧山車蔵を北町組に貸して北町組の山車を納めた.
その後は6月27日基礎工事、北町組の山車蔵完成を待って7月2日に旧本町組山車蔵を解体、12日に建前.
竣工は8月になってからのことである.
紀念山吹神事係事務所増築記(部分)
旧本町山車蔵(左)と旧北町組山車蔵(右)
この山車蔵移転に関する記述は、北町組の『紀念山吹神事係事務所増築(記)』にも記されており、併せ読むと移転に関する全体像が見えてくる.
「車蔵建築元治元年甲子春 位置 愛宕神社境内に北町組本町組と二棟」
元治元年(1864)に建てられた北町組山車蔵は愛宕神社境内に本町組とともに二棟だという.
本町組の山車蔵がこの時同時に建てられたのか、それとも以前から境内にあったのかこの資料からは不明だが、北町組と同時期かそれ以前に愛宕神社境内に山車蔵があったことは間違いない.
本町組に文政8年(1825)の棟札が残されているから、あるいはこれが愛宕神社境内にあった山車蔵の建造年の可能性もある.
また「車蔵移転大正11年7月 敷地坂正臣氏御寄付に依り・・・移す」とあり、北町組の山車蔵も同時期に移転したことが記されている.神社境内に並んで建っていた両組の山車蔵は、移転後も再び隣接して建つことになった.
この本町組と北町組の両山車蔵だが、新築ではなく移築されたと推定される.その根拠は車庫改造記に「山車ヲ解キテ車庫ヲ一時北町組ニ貸シ」とあり、さらに「北町組車庫ノ略成ルヲ待ツ而シテ六月廿七日基礎工事ニ着手」と書かれている.
北町組の山車蔵を解体してから完成するまでの期間、本町組山車蔵を借りて北町組の山車を保管しているが、新築であれば借用する必要はないだろう.
「車庫改造記」全文
大正十一年神社境内ノ車庫ヲ取拂フベキ命ニ接シ敷地撰定ニ苦心中偶坂正臣先生ノ寄進ニ係ル此ノ地 ヲ給セラレシ六月一日地鎮祭ヲ行ヒ八九ノ両日山車ヲ解キテ車庫ヲ一時北町組ニ貸シ以後北町組車 庫ノ略成ルヲ待ツ而シテ六月廿七日基礎工事ニ着手シ七月二日旧車庫ヲ毀チ十二日ヲトシテ立前ヲ行ヒ廿五六両日ニ屋根ヲ葺キ八月十四日圄ヲ張リ戸締ヲナシ了ル梅雨期ヲ含メルニ係ラズ立前ニ先ンジ僅々數日ノアメニ會ヒシノミナルハ盖シ神佑ナルベシ
此ノ工事タルヤ堅牢ヲ主トシタルヲ以テ之ヲ請負ニ一任スルコトナク委員一名以上必ズ工事ヲ監督シ組内各戸壹人ヅツ出デテ勞役ニ服シ神事係モ亦各數日ノ勤務ヲナシ佐治委員ノ如キハ常務ノ重任ニ當リテ終始薫督ニ努メタリ
猶此ノ機會ヲ以テ山車ノ楔及ビ樌ヲ改善シ車輪ヲ補?シ天井及彫物ヲ修繕シ綱五條ヲ改造ス
而シテ?要ノ費用概ネ左ノ如シ
一金六百七拾圓 車庫ノ分
一金百五十圓 山車及附属品ノ分
一金六十圓 雑費
以上
改造委員
行事 竹内真吉
同 塚本善三郎
評議員久野正造
同 中野勘吉
同 野畑菊太郎
同 吉田真太郎
嘱託 森口八郎
同 酒井熊太郎
同 佐治麻太郎
神事係
監督 伊藤正夫
幹事 坂貫一
同 坂敬一
同 木村銀治郎
会計 村瀬常雄
同 塚本一雄
小若衆頭都築興三次
小若衆頭副山田吉次
相談役江口榮蔵
小若衆黒川敬義
同 深川健造
同 石濱岩吉
同 坂鎌義
同 野畑芳次
同 富田善一
同 伊藤平八郎
同 吉村鐐造
大正拾壹年拾月掲之
本町組