08.07.19更新

本町組・北町組の旧山車蔵2


旧本町組山車蔵

旧北町組山車蔵

上記跡地に建つ現在の北町組山車蔵

大正11年以前の愛宕神社境内の旧山車蔵について

 本町組・北町組の山車蔵が境内のどのあたりに建っていたのかは不明だが、少なくとも大正11年までは境内への山車曳き込みが可能だった事になる.
 現在愛宕神社は周囲を柵で囲われており、正面鳥居も低く山車を境内に曳き込む事は出来なくなっている.

現在の山車蔵

 大正11年に建てられた本町組・北町組の山車蔵は平成11年に解体され、その使命を終えた.北町組の蔵は建造後135年、移築後77年目のことである.
 この跡地に同年北町組の山車蔵を建造することになったが、77年前と同様に山車を一時別の場所に保管することになり、北町組は元浜南端の東海市の保有する浄化センター内(元浜ポンプ場)に新山車蔵の完成まで仮保管された.
 本町組の山車は平成13年の新しい山車蔵の完成までの2年間、当時空いていた旧円通の山車蔵を借りている.

山車蔵の呼び名

 本町組の改造記には【車庫】と書かれている.また北町組の『紀念山吹神事係事務所増築記』は【車蔵】である.他に公通組八公車山車蔵の棟札は【土蔵】となっている.
 現在では山車蔵(だしぐら)と呼んでいるが、名古屋では「保管庫」「納庫」「保存庫」などまちまちである.

山車の表記

 改造記には 『両日山車ヲ解キテ』や 『山車及附属品』など【山車】という表記が見られる.
 この地方で祭礼車のことを【山車】と書き【だし】と呼ぶようになったのはいつ頃からだろうか.
 横須賀では大正年間には既に山車と表記していたことが判る.ただしこれを【だし】」と呼んだか、或いは【やまぐるま】なのかは不明である.公通組には祭禮車と書かれた棟札もある.

坂正臣先生について

 本町組、北町組の山車蔵立ち退きの窮状に際し、土地を寄進した坂正臣先生とは如何なる人物なのか.
安政2年(1855)横須賀の旧家坂丈に生まれ昭和6年(1855-1931)77歳で没している.実家は本町組に属していたという.
 通称を政之介といい、愛宕神社神官だった坂広雄に大橋流の書を学ぶ.書、和歌ともに卓越した才能を発揮し、後に宮内省御歌所寄人・同主事等を歴任し、明治天皇や皇族に和歌や書を教えたというから、横須賀町方では屈指の人物である.
 「敷島艦行進曲(敷島艦の歌)」「教育勅語」「国旗」など小学唱歌、軍歌、校歌などの作詞も手がけ、横須賀小学校の校歌も彼の作詞である.
 余談ではあるが、同校歌を作曲した田村虎蔵は「金太郎」「花咲爺」「一寸法師」「大黒様」「浦島太郎」など誰でも知っている童謡を作った作曲家で、当時としてはゴールデンコンビの校歌だったろう.

 書家としての彼の作品や各地に残る歌碑銘は「阪 正臣」とされている場合が多い.

本町組山車の修理

 本町組の山車蔵完成は大正11年8月で、この間に山車の楔(くさび)及び樌を換え、車輪の補修、天井及び彫物の修繕などを行っている.
この山車修繕の費用は150円で、山車蔵の立替費用を合計すると880円となる.

山車の解体について

 西枇杷島祭り(清須市)や犬山、半田、知立などの一部の山車は、バラバラに解体して保管し、祭礼前に組み立てを行っている.現代では名古屋型の山車も大半は組んだまま山車蔵に納めているが、少し前まではやはり毎年祭礼前後に組立・解体を行っていたようである.
 車庫改造記に『八九ノ両日山車ヲ解キテ車庫ヲ一時北町組ニ貸シ』とあり、横須賀の山車は以前から解体せず、空木立ちのまま山車蔵に保管されていたことがわかる.