尾張の山車まつりへ [どんてんぐるま]−[屋根の昇降]

  屋根の昇降


せりあげ車

屋根昇降ウインチの例(新出来・鹿子神車)
 山車の屋根を横須賀では「ヤカタ」と呼ぶ.「屋形」の意だろう.
このヤカタは高さが調節出来るが、無論横須賀だけではなく尾張系の山車の多くはこの機構(せりあげという)を備えている.
ここでは詳しく説明しないが,山車の中段にある「せりあげ車」を廻すことにより、屋根が上下する仕掛けになっている.
 名古屋市内東区や中区の名古屋型の山車は改造されており,山車内に設置されたウインチのハンドルを回すと金属ワイヤに連動した屋根が、いとも簡単に上下する.一人でも操作出来るので,山車が動いているときでも昇降することが出来る.

 本来の仕様、横須賀の山車などは大勢の若衆が山車内部から出た綱を曳いて屋根を上下させている.これも大袈裟なからくり仕掛けを見ているようで楽しくもある.

 ヤカタは「最上段」から最下段」まで数段階に固定できるようになっており,TPOに合わせて高さを選択する.
からくり演技の時や、電線が高く張ってある道路では屋根を高くして運行出来るが,夜間や電線の低いところでは下げて曳かなければならない.(大門組は蔵を出てから戻るまで上段に終始する)
だが,山車を最も美しく見せるのは,やはり屋根を精一杯上げた姿であるし、これが基本であろう.

 「屋根と電線」の項でも述べたが,横須賀の山車が造られたのは江戸後期で,もちろん電線などなかった時代である.歩道橋もなければ信号機もなく,昔の空は現在より広かったに違いない.
 当然のことだが,現在のように電線に合わせて屋根を上下させる必要もなかっただろう.
名古屋型山車のルーツは東照宮祭であるが,この徳川家康を祀る東照宮は名古屋城内に鎮座していた.それで東宮祭の山車(若宮の山車も)は藩主上覧ということで,城内に曳き込んでいたという.
 それは、「御薗御門」より曳きこみ「西御土居」、東照宮を経て「本町御門」に至ったという.
その為には名古屋城の御門を潜らねばならず,屋根を上下させる機構を備えなければ城内に入る事が出来なかったのである.(注1)
 以後,この東照宮祭の山車に類似した山車(名古屋型山車)が多く造られるようになったが、この名古屋型や、名古屋型から派生した知多型山車を含め,多くの山車がその必要性がないにもかかわらず、せり上げ装置を備えているのは不思議である.(注2)
 横須賀の山車も同様で、横須賀町方内に山車がくぐる門があったとは聞かないし、大して必要ともなかったろう.
せり上げ装置が活躍したのは,背の低い山車蔵への出し入れの時くらいだったのではないだろうか.

 しかし、大して役に立っていたとは思われないせり上げ装置が,結果的に後の尾張系山車の存亡に関わる大きな要因になったのである.
 それは明治期に電線(路面電車の架線も含む)が張られて,山車の曳き廻しが出来なくなり、廃止されてしまった山車が多くあったことである.
東京で御輿が盛んになり江戸型の山車が衰退したのもこれが原因だという.

 近在では岡崎市では背の高い山車を半分に切って原型をとどめない改造をしてしまった例もあるし、熱田の大山はその丈の高さから,電線のため曳くことが出来なくなり衰退してしまった.
 電線があっても背の高い山車が現在でも自由自在に(ある程度の限界はあるが)運行出来るのは,大して意味のなかったせり上げ装置のおかげであるから,感謝せねばなるまい.
 だが,これに頼ってしまい,常時屋根を下ろして山車本来の姿をスポイルさせたまま山車を曳いているのは本末転倒ではないだろうか.(注2)
上述したように,屋根を高く上げたのが山車本来の姿であり,山車の一番美しい姿なのは衆人の一致するところ.現状に満足することなく,気兼ねなく曳く事の出来る町並み作りも今後の課題かと思う.
 また横須賀の山車丈は名古屋型の中でも、最も背が高く作られているのだが、これは別項で述べる.

上段

中段

下段

(注1)屋根のない東照宮の橋弁慶車、雷電車と若宮の黒船車はその必要はなかった.
(注2)犬山の山車は、せりあげ装置を持たないが、山車が曳かれる道路は全て山車の高さに合わせて電線が引かれてあり,それは見事というしかない.
また津島秋祭りの山車にもせり上げ装置を持たない山車があるようだ.
(注3)ここでは知多型については触れないが、堂山に隠れてしまうまで下げた屋根は、やはり美しくはないと思うのだが.
※参考
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