尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[64]


〜第64回〜

屋敷奉行の水野武兵衛が祠の中から発見した二体の菩薩の像はその後千代姫の意向もあり随柳亭に置かれてゐたが、暫くしてその随柳亭が火事に見舞はれるといふ事態になつた。

「は、灰になつてしまつたと云はれるか?」
「うむ、二度と眼にすることのないやうな立派な仏像であつたから実に残念なことであつた。しかし、予以上に残念な思ひをしたのが千代であつた。予に劣らぬくらゐ信仰心の篤い千代であつたが、それらの仏像に対する思ひ入れは普通ではなかつたからな。その二体の菩薩の顔を交互に眺めてゐると、心が休まると同時にまるで極楽浄土に自分が居るかのやうな幸福感に満たされる、などと千代は常々言つてゐた。時には、昨日の菩薩様は随分と優しい顔をしてゐらつしやつたが、今日の菩薩様はなんとなく悲しい眼をしてゐらつしやる、何か悪いことが起きなければよいが、などと言ふこともあつて、その仏像に心が奪はれてしまつてゐる様子は予も呆れるほどであつた。したがつて、それらが灰になつたといふことを聞いた時の千代の嘆き様と言つたら、そりや、まう、大変なものであつた・・・」
「待つてくだされ、光友公、千代姫のことを思ひ出されてゐるところをなんですが・・・」
「うむ、なんぢや?」
「菩薩の像のことはそれでよく判りましたが、その、例の烏の化け物は一体どうなりましたので?殿様のお話にはなかなか出てこないやうですが・・・」
「フオツフオツフオツフオ!前置きが長いので、どうやら痺れを切らしたやうだな。許せ、予も少しばかり余計なことをしやべり過ぎたやうぢや。だが、肝心なことを忘れた訳ではない。烏の化け物についても丁度今から話さうと思つてゐたところだわ。予はそれが予の前に現れた時のことをよく覚えてゐる。その時のことを早速これから話すことにしよう」
光友の霊はそこで一つ咳払ひをすると更に言葉を続けた。
「烏の化け物が現れたのは随柳亭が火事で焼けたその直ぐ後のことであつた。最初にそれを目撃したのは庭の仕事の手傳ひをしてゐた地元の農民たちであつた。彼等はその日、例の烏之御宮と呼ばれる古い祠の近くで草を刈る仕事に従事してゐたのだが、皆その曰くつきの祠の扉が開けられことを知つてゐたから、中は一体どうなつてゐるのだらうといふ好奇心は抑へられず、鍵の壊れたままになつてゐる扉を開けて中を覗かうとしたさうだ。すると、扉を半分ほど開けた時であつた、中から突然黒くて大きな突起物がぬつと出て來たから、その扉の前に居た農民たちは驚いたのなんの、皆ワアツと叫んで後ろへ跳ぶやうに退いたのだが、その突起物は例の烏の化け物のくちばしであつたといふわけだわ。それから、その烏の化け物は祠の中からゆつくりと外に出て來て、その薄氣味の悪い真つ黒な巨体を露(あらは)にしたかと思ふと、腰を抜かしてゐる農民たちを尻目に、直ぐに大きな翼をバサバサ揺らせて空の彼方へ飛び去つたといふ。その話を傳へ聞いた予は、烏の化け物?本当なら面白いが、どうせ与太話であらう、大きな烏を見た者が話を膨らませたに違ひない、とてんで相手にしなかつたのだが、その翌日余はそれを実際に見ることになつたのであつた。ここに居る連也と予が庭の中にある『余慶堂』といふ大きな書院の座敷で碁を打つてゐた時であつた、外が余りにも騒がしいので縁側に出てみると、その余慶堂の前に家來たちが集まつて何やら騒いでゐるではないか。そして、皆が皆空を見上げてゐるから、一体何事だと余も頭を上に傾けると、そこには時折雷鳴が聞こえる薄暗い空が横たはつてゐたのだが、その空の中を大きな黒い物体がぐるぐると飛び廻つてゐたといふわけだわ」

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