尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[62]


〜第62回〜

『烏之御宮』と呼ばれる古い祠の中には二体の菩薩の像が置かれてゐたが、それは徳川光友も吃驚するほど生々しいものだつた。

「なるほど、全ては夢まぼろしといふことか。さう言へば、その言ひ傳へに因ると、神烏の祠を修復した翌朝田んぼは豊かに実つた稲穂で一杯で、烏たちにそれが食はれた形跡など全く無かつたといふ話だつたが、さうか、その不思議な話もそれで説明が附くといふ訳だな。すると、一体どういふことで?殿様のおつしやることが本当で、そのやうな妖術をその旅の僧が使つたとしたら、すると、その僧の正体は・・・」
「うむ、お前が察する通り、その僧は・・・」
「お、織田無道か!・・・へへ、ちよつとした冗談でして。失礼しました。すると、その僧は朝比奈、朝比奈義秀の霊が化けたものなのでは?」
「うむ、予もさう思ふ。名主からその話を聞いた時にはそのやうなことは思つてもみなかつたが、今になつてよく考へてみると、その可能性が高いやうに思へる。朝比奈の霊が自分の建てた神烏の祠を修復したかつたのであらう。祠が破損したままでは、そのうち誰かがその中に入るに違ひない。さすれば、菩薩の像も安全とは言へぬ。そこで、旅の僧となつて道灌の前に現れ、祠を修復することを勧めた、さういふことではないかの。さう考へると、道灌に厳重に扉の鍵を懸けるやうに頼んだ訳も分からうといふもの」
「なるほど、それで修復が終はるとなんだかんだと口実を作りその鍵をもらつて何処かへ逃げたといふ訳だな。しかし、それが事実だとすると、朝比奈にとつてその菩薩の像はよつぽど大事なものだつたといふことになりますが、それは一体どういふ訳で?」
「うむ、問題はその点だが、それだけは予にも判らぬ。その旅の僧が本当に朝比奈の霊が化けたものだとすると、それほどまでにしてその神烏の祠にこだはつたといふことは、死んだ後もその中にあつたその菩薩の像を誰にも渡したくなかつた、つまり、それに対して尋常ならぬ思ひ入れがあつたと考へるのが自然だが、さうだとしても、その訳まではな。予にも見当がつかぬ。ま、あれほどの立派な仏像だから、他人の手に渡るのを嫌がる氣持ちも判らぬでもないが、それだけが理由なら死後までそれに執着することはないであらう。予が思ふに、その菩薩の像には何か秘密が、朝比奈本人にしか判らない秘密があつたのではなからうか」
「しかし、光友公、その二体の菩薩の像は結局殿様の手に渡つたといふお話でしたが?その後それは一体どうなつたので?」
「うむ、それがな、残念なことに燃えてしまつた」
「燃えてしまつた!?」
「さういふことぢや。火事で燃えてしまつたのだわ。その当時、庭の中の池の近くに來客を接待するための数寄屋風の建物が設けてあつた。この建物から池畔にある柳の老木がその鬱蒼と垂れた枝を風になびかせてゐる、いかにも長閑で風情のある景色が望めたので、これを『随柳亭』と呼んでゐたのだが、武兵衛が祠の中から発見した後その二体の菩薩の像はここの上段の間の床の間に置いておいた。あまりに立派な仏像であつたから将軍が御成りの時にそれを上覧に供しようと思つたのだわ。結局、家綱殿の体調が急に思はしくなくなつて御成りは延期になつてしまつたが、その二体の菩薩の像は暫くの間そこにあつた。何故なら、霊仙院※1がそれがそこにあることを好んだからなのだわ。千代はその随柳亭の辺りの風景を随分氣に入つてゐて、戸山荘に居る時はそこで過ごすことが多かつたのだが、その菩薩の像もどういふ訳か酷く氣に入つてゐてな、それを身近な処に置いておきたいといふことでその随柳亭にそのまま置いておいたのであつた。ところがぢや、或る日ちよつとした地震が起きた折に勝手から火が出てな、随柳亭は半分ほど燃えてしまひ、その二体の菩薩の像は運悪くどちらもすつかり灰になつてしまつたといふ訳だわ」

小僧注

※1

光友の正室の千代姫。徳川家光の長女である。この千代姫の生母である家光の側室のお振りの方は、津軽に落ちのびた石田三成の次男、隼人正重成の孫といふ説があり、それが正しいとすると光友の子の三代目徳川綱誠や高須藩の祖の松平義行には石田三成の血が入つてゐることになる。詳しいことが知りたい方は青森北の街社の『石田三成と津軽の末裔』(佐賀郁朗著)を参照されたし。これは力の入つた歴史研究書と云へ、それが単なる仮説ではないことに氣づきます。


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