尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[58]


〜第58回〜

かつて戸山荘と呼ばれた尾張徳川家の江戸下屋敷、その屋敷内にある広大な庭園の中に『烏之御宮』と呼ばれる古い祠があつたが、その祠にはそれに纏わる不思議な言ひ傳へがあつた。

「すると、その旅の僧が道灌に告げた『烏たちは村から居なくなる』といふ話は本当であつた。その翌朝、農民たちが恐る恐る田んぼに出てみると、つひ前日までそこに見られた風景は一変してゐて、田んぼの何処を見ても、あの忌はしい烏の黒い影を見ることは無かつたから、彼等は驚いた。空を黒く染めるほど飛び交つてゐた烏の大群は一体何処へ消えたといふのか、農民たちは一羽の烏も眼にすることが無かつたといふ。
それだけではない、烏たちに散々荒らされたとばかり思はれてゐた田んぼだが、不思議なことに、全ての田んぼが重く垂れた稲穂によつて少しの隙間も無くぎつしりと埋められてゐて、烏たちに幾らかでも食はれた形跡など全く無かつたといふから驚くではないか。農民たちは皆狐につままれたやうな顔をして、辺り一面黄金色に染められたその信じられない風景を眺めてゐたさうだ。
そして、それから後は烏が現れてもそれは数へるほどで、農民たちは二度と烏に悩まされるといふことは無かつたといふ。
そのことがあつてからといふもの、戸山の農民たちがその神烏の祠をどれだけ大切にしたかは言ふまでもないことであらう。『神烏様(こうがらすさま)』と崇めて、毎日のやうに供物を捧げたさうだ。その祠の前には澤山の穀物や野菜や饅頭などに混じつて焼酎まで並べてあつたといふ。うむ、烏も酒には眼が無いといふ話だからな。嘘ではない。いつだつたか、悪質な烏に悩まされてゐる外国の人たちが、酒を囮の餌にして烏たちに飲ませ、澤山の烏がふらふらになつてゐるところを難無く一網打尽に捕獲して喜んでゐる様子をCNNのニユースで見たことがあつた。予が住んでゐる建中寺でも、昼間から大酒を飲んで境内をふらふらしてゐる大きな烏を時折見ることがある。と言つても、それは言葉をしやべる烏だがな、フオツフオツフオツフオツ。
それは冗談だが、とにかく、それまでと違つて、戸山の農民たちはその祠をこの上無く大事にして敬ふやうになつた。そして、暇が少しでもあればその祠に詣で、五穀豊穣、無病息災、勝運長久を祈つたさうだ」
「光友公、その勝運長久といふのは一体何です?武運長久なら聞いたことがあるが」
「うむ、戸山の農民たちは皆博打が好きでな、暇さへあればさいころ賭博や花札をやつてゐた。それで自分だけは勝たせてくれとそれぞれが勝手に祈つたといふ訳だわ。予も博打は好きな方でな、時々プレステの競馬ゲームに金を賭けて家來たちと・・・おつと、これは余計なことであつたな。それから、これも又余談だが、戸山の子供たちの間では、その事件以來このやうな唄が流行つたといふ。か〜ら〜す〜なぜ消えた〜、からすの勝手でしよ〜〜、なんてな、フオツフオツフオツフオツ・・・オホン、あまり面白くなかつたやうだの、この話は。
ま、それはともかく、その祠が土地の者から『烏之御宮』と呼ばれるやうになつたのはその頃からといふ話でな、戸山の名主が予に語つてくれたその祠に関する言ひ傳へは以上のやうなものであつた」
「ふうーん、なるほどねえ、さういふ訳でしたか。しかし、農民たちを困らせた烏の大群はよいとして、烏を祀つた祠に厳重に錠を懸けたり、怪しげな旅の僧が現はれたりと、その祠に纏はる言ひ傳へには何処か腑に落ちない、何やら謎めいたところが多いやうで、どうもオイラの頭の中はすつきりしない。問題はその祠の中にあつた大きな厨子だが、一体その中には何があつたのだらう?光友公はそれを御存知・・・さうか、分かつた!その武兵衛とかいふ屋敷奉行がその厨子の扉を開けた時に、その中から例の烏の化け物が飛び出して來たといふ訳で!?」
「うむ、その通り。予はその時そこに居なかつたから、これは武兵衛から聞いた話だが、朝比奈の化けた大烏がな、クアークアー鳴いて物凄い勢ひで厨子の中から飛び出して來たさうだ。その場に居合はせた者は皆腰を抜かさんばかりに驚いた。が、次の瞬間、皆の眼が点になつたといふ。何故なら、その烏の化け物、飛び出したはよいが、その尻尾には何故か一本の紐が垂れ下がつてゐてな、その化け物が空へ昇るにつれて、厨子の中からその紐に結び附けられたいろいろな国の国旗がスルスル、スルスルと澤山引つ張られて出て來たからであつた。その光景は、まるで初代引田天巧のマジツクシヨーを見てゐるやうなものであつたといふ」
「・・・・・・」
「といふのは嘘だわ、フオツフオツフオツフオツ!許せ、今言つたことは全くの冗談で、実は烏の化け物など飛び出しては來なかつた。武兵衛は幕府の役人たちの要求に従つて厨子の扉まで開けたのだが、その時その中から何かが飛び出したといふことはなかつた」
「しかし、光友公、先程朝比奈の化けた大烏を見たと言はれたではないか?それでその祠の話になつたから、オイラてつきり・・・」
「まあ、待て。話には順序といふものがある。予が烏の化け物を見たと言つたのは嘘ではない。そのことは追ひ追ひ話すからまう少し予の話を聞くがよい」
「これは失礼。少し先走つてしまつたやうで、ヘヘ。しかし、烏の化け物でないとすると、その厨子の中には一体何があつたといふので?」

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