尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[55]


〜第55回〜

横須賀御殿は城としての機能も備へてゐたが、そこには徳川光友の大きな企てが秘められてゐた。

「なに?そんなことはよいから、本題のはうに入つてくれ、とな。うむ、実は、光友は、明の復興を目指すその国性爺、鄭成功とその子の鄭経を助けたいと思つておつたのだわ。何故かといふと、清はその頃領土をどんどん広げておつて、強大な国にならうとしておつた、したがつて、同じく北方の異民族から興つた元のやうに、それはそのうち日本に攻めて來るのではないかと、光友は真剣に心配しておつたのだわ。といふ訳で、どうして横須賀御殿は海の近くにあり、城のやうな造りになつておつたか、その理由がなんとなくお判りになつたであらう?
なになに?窮乏した藩の財政を立て直さうと、光友公はその鄭成功と密貿易を行ひ麻薬の取引ををしようと考へてゐた、そこで、御殿をその拠点にしようとしたのではないか、とな?
うむ、よく判つたの。光友は鄭成功から仕入れたアヘンを国内に捌いて、金の荒稼ぎをしようと企んでおつた。そこで御殿を・・・違ふ!違ふ!何を言はせる、お前さんは!御三家筆頭の殿様が麻薬の取引などするわけがないではないか。全く、何も判つておらんやうだの、お前さんは。
さうではない、光友は、鄭成功たちを助けるために、兵を台湾や中国に送らうと考へておつたのであつて、保養のためにといふこともあつたが、どちらかと言へば、それを目的として御殿は造られたのであつた。つまり、いつでも中国に向けて兵を出せるやうに、清が攻めて來てもその防ぎになるやうにと、そのやうな軍略的な目的に主眼を置いて御殿は築かれたといふ訳だわ。幕府の眼もあり、城をそのまま築くわけには行かないので天守閣などは無かつたが、それは実際、城と言つてもよいやうなもので、横須賀御殿は、実は、別邸に見せかけた軍事的な要塞であつたと、さう言つてもよいであらう。
なに?それは本当か、と言はつしやるか?
嘘ではない。事実、中国への援軍のことは幕府にも進言したことがあつた。その時は大老井伊直孝によつて斥けられてしまつたがの。しかし、事が一旦起きたなら、幕府が重い腰を上げたなら、その御殿をそのまま直ちに中国へ向けての進出基地にしようと、光友は考へておつたに相違ない。御殿内には大きな入り江があつたが、そこでは船を澤山造ることが出來たといふことや、当時、家臣團はいつでも戦闘に就けるやうな準備しておつたといふ事実がそれを証明しておるであらう。
なになに?てなこと言ひながら、本当は、幕府が光友を蔑ろにして、なんだかんだと尾張徳川家にケチをつけて來た時のことを考へて、それならこちらにも考へがある、売られた喧嘩ならいつでも買つてやる、と言ひたいために、つまり、示威運動のために、その城のやうな御殿を造つたり、戦闘準備をしておつたのではないか、とな?
いやいや、そんなことはない。光友にそのやうな幕府に楯突かうといふ考へは毛頭無かつた。純粋に日本の国のことだけを考へておつたのであつた。だが、幕府も、光友の心の中が正確に把握出來ず、その御殿のことに関しては神経を尖らせておつたやうだ。御三家であるために『直ちにそれを取り壊せ!』と強権を発動することが出來なかつたから、多くのお庭番※1を御殿の周辺に住まはせて、その動静を監視させておつたといふ。
なに?光友公の意氣込みは判るが、その当時の清と戦はうなんて無茶な話、風車に立ち向かふドンキホーテのやうなものではないか、もし清が反対に日本に攻めて來たら、いくら城のやうな造りとは言へ、横須賀御殿はひとたまりも無かつただらう、意味を成さなかつたに違ひない、と言はつしやるか?
うむ、さうかもしれん。お前さんの言ふ通り、中国に兵を送らうなんて、ちよつとばかり無謀であつただらう。だが、鄭成功は日本に再三援助を求めて來ておつたし、光友は、清の攻撃を避けて中国から逃れて來た中国人を何人か保護しておつたが、彼等からもそれを要請されておつた。したがつて、義侠心に篤い光友が清に抵抗しておる人たちを何とかして助けてやりたいと思つたのも当然のことで、莫大な金を要するのも顧みず、中国に援軍を送ることに拘つたのであつた。幕府にその氣が無いなら、尾張一国でそれを成し遂げてやる!と光友が思つたのも一度や二度ではなかつた。といふ訳で、これが歌舞伎の筋なら、大向かふから、よお!日本一!男の中の男、光友!徳川屋!なんて声が掛かるのではないかな、なう、お前さん?
なに?実際に行動に移したわけではないから、光友公も余り威張れたものではない、とな?
さうか。さう言はれると反論のしようが無いが。しかし、もし、光友に度胸があつて、藩が取り潰しに遭ふのも顧みず、実際に援軍を中国に送つておつたら、どうなつておつたかの?源義経や坂本龍馬のやうな英雄として、光友は歴史にその名を残しておつたのではあるまいか?
なに?そんなことはまづないだらう、滑稽な事件を仕出かした、向かふ見ずで、愚かな殿様として、歴史の教科書のコラムに小さく取り上げられるのが関の山だらう、とな?
酷いことを言ふなう。ま、お前さんのことだから、又そんなことを言ふのではないかと思つておつたが。だが、お前さんは、ワシをからかはうと、口ではそのやうに光友を悪く言つておるが、本当は光友を評価しておるのであらう。いやいや、隠さなくともよい。ワシにはそれが判る、うんうん。
なに?歳を取ると思ひ込みが激しくなる?ヒヒ、どこまでも口の悪い人だの、お前さんは」

小僧注

※1

当時、多くの陰陽師が御殿の周辺に移り住んでゐたが、彼等が幕府の放つたお庭番だと云はれてゐる。


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