尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[53]


〜第53回〜

徳川光友が馬走瀬村に別邸、所謂横須賀御殿を築いた真の理由とは?怪しい老人の話は続く。

「なに?社寺の創建、修復はよいとして、横須賀御殿を建てたのは単なる金の無駄遣ひではなかつたか、とな?
うむ、世に言ふ横須賀御殿、正確には臨江亭といふ名の光友の別邸だが、これを建てたのは、ヒヒ、そりやまう道楽と言つてもよかつた。だが、先程話したやうに、この横須賀※1は景色が素晴らしかつたし、新鮮な魚が美味しかつた。それに何より、光友は、泳ぎが得意なこともあつて、海水浴が大好きであつた。泳いでゐてお腹が空くと、立ち泳ぎをしながら、瓜の皮を小刀で剥いて喰べたこともあつた※2。それくらゐ泳ぐことが好きであつた。といふ訳で、光友が中島郡の苅安賀にあつた別邸をわざわざこの横須賀に移した※3のは当然のことで、お前さんにもそれは理解出來るであらう。
とにかく、光友はこの横須賀が大変氣に入つておつた。尾張に居る時は、名古屋の城で過ごすより、ここの御殿で過ごすはうが多いといふ、そんな年もあつた。したがつて、光友がそれを建てたのは金の無駄遣ひだなんだと言はずに、まあ、その辺は大眼に見てやつてくだされ。
それに、この横須賀でこのやうな立派な祭りが今も続けられておることを考へると、光友が御殿を建てたのは全く意味の無いことだつた、とも言へまい。お前さんにしたつて、かうやつて只酒を御馳走になり、山車祭りを存分に楽しんでおるではないか。御殿が無かつたら、この祭りもあつたかどうか判らない。お前さんもここに來ることは無かつたかもしれぬではないか、なう、お前さん?
なに?光友公がこの横須賀を何故氣に入つたのか、それは判つたが、御殿に関して判らないことが一つある、とな?ほお、それは一体どういふことかな?
ふむふむ、別邸にしては、規模が大きく、周囲に堀や塀をめぐらし、御殿内には城地と同じやうに枡形※4が造られてゐたといふ話ではないか、それは一体どういふ訳なのか、とお訊きか?
ほおー、御殿の周囲や御殿内の一部は城のやうな造りになつておつたといふことを、お前さん、よく知つておるの。判つた、それもなんとかネツトで調べたといふ訳だな?
さうか。それなら、その訳を話さんわけにはいかんだらうな。うむ、御殿は桂離宮のやうな性格をもつ別邸で、数奇屋造りの様式であつたが、確かに、お前さんの言ふ通り、それは軍事的な性格、つまり、城のやうな機能も持つておつた。
いやいや、別に隠しておつた訳ではない。実を言ふと、それには光友の大きな企てが秘められておつたのだが、今となつては、それは俄かに信じ難い、やや荒唐な話でな、お前さんに話しても信じてもらへないのではないかと思つて、それで黙つておつたのだが、さうか、それなら是非も無い、光友が何故御殿をそのやうな造りにしたのか、その訳をこれからお話ししよう。
光友の父義直公の時代、中国では北方民族の女真族が台頭して明を滅ぼし清を建国したのだが、光友の時代になつても、その清に屈せず、頑強に抵抗を続けておる勢力が中国にあつた。それは明の遺臣鄭成功(ていせいこう)※5とその子孫たちで、台湾を根城として、強大な海上勢力を背景に、所謂ゲリラ作戦を展開して、清を苦しめておつた。なんとかして異民族の王朝清を倒し、漢民族の王朝明を復興させようといふ訳だわ。
なに?そんな中国の話と横須賀御殿と、一体どういふ関係がある、と言はつしやるか?うむ、それが大いにあるのだわ。お前さんは鄭成功を御存知かな?さう、鄭成功だわ。
なに、知つとるとな?ほお、それはそれは。ふむふむ、並外れた速さで日本中を沸かせた公営出身のサラブレツドだらう、とな?
違ふ、違ふ、それはハイセイコー。競争馬がゲリラの大将になつてどうする。ワシが言つておるのはテイセイコウ、馬でなく人間だわ。
なに?知つとる?学校で歴史の時間に習つたのを今思ひ出した、とな?
さうさう、鄭成功は母親が日本人で、国性爺と呼ばれ、近松門左衛門の浄瑠璃『国性爺合戦』の主人公として有名だわな。さうか、知つとるか。お前さんは、一見して、ギヤラの安いコメデイアンといつた風貌で、無教養な馬鹿面をしておるが、案外物知りのやうだの、ヒヒ」

小僧注(1)馬走瀬ト云名ハ宜カラストテ、隣村ノ名ヲトリテ、横須賀ト改メラレタリ(延宝三年)、夫ヨリ元ノ横須賀ヲ、アゲノ横須賀ト云トアリ、今高横須賀ト云コレナリ・・・(昔咄)(2)立オヨキ御上手ニテ、水中ニテ、御小姓天野太郎左衛門、瓜ヲ鉢ニ入指上候ヲ御取、瓜ノ皮ヲムキ、被召上候。(岩淵物語)(3)寛文六年(1666)に臨江亭完成。病氣保養ノ為ト云、海水浴ノ為也ト云。(尾藩世記)(4)城の門と門の間に四角に作つた空き地で戦闘人員を数へた処。(5)鄭成功(1624−1662)日本の平戸で密貿易の首領鄭芝龍と平戸藩士の娘田川松との間に生まれる。俗称を国性爺(こくせんや)と云ふ。

横須賀御殿復元図

小僧注

※1

馬走瀬ト云名ハ宜カラストテ、隣村ノ名ヲトリテ、横須賀ト改メラレタリ(延宝三年)、夫ヨリ元ノ横須賀ヲ、アゲノ横須賀ト云トアリ、今高横須賀ト云コレナリ・・・(昔咄)

※2 立オヨキ御上手ニテ、水中ニテ、御小姓天野太郎左衛門、瓜ヲ鉢ニ入指上候ヲ御取、瓜ノ皮ヲムキ、被召上候。(岩淵物語)
※3 寛文六年(1666)に臨江亭完成。病氣保養ノ為ト云、海水浴ノ為也ト云。(尾藩世記)
※4 城の門と門の間に四角に作つた空き地で戦闘人員を数へた処。
※5 鄭成功(1624−1662)日本の平戸で密貿易の首領鄭芝龍と平戸藩士の娘田川松との間に生まれる。俗称を国性爺(こくせんや)と云ふ。

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