尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[51]


〜第51回〜

小僧が元浜線で出逢つた怪しい老人が語るのは徳川光友の生母乾の方の話から尾張藩の財政が窮乏した話に。
「一方、乾の方は、おそらく自分と光友の境遇に酷く心を悩ましたのであらう、光友を産んでからは病氣がちになり、残念ながら光友が九歳の時に江戸で亡くなつたのだが、病に臥しておつても、氣分がよい折には必ず床を抜け出して仏様の前に座り、光友が立派に成長することだけを願つて誦経を繰り返しておつたといふ。
とまあ、さういふ訳で、光友のその神仏を崇拝する念が強いのは、ワシが今お前さんに話したやうな事情が大いに関係しておると言つてよいであらう。
あん?なんかお前さん、しんみりしとるの?判かつた。乾の方の話で自分の母親を思ひ出したな。うんうん、判る判る。その氣持ちはよく判る。
なに?仏様の前で誦経を繰り返してゐる母を後ろからじつと見詰めてゐた幼い光友公、その光友公の氣持ちがなんとなく判るやうな氣がする、とな?さうか、判るか。うんうん。
なに?光友公は仏様へのお供へ物を狙つてゐて、乾の方がそこを去るのを待つてゐたのだらう、とな?うむ、よく知つておるの。食いしん坊の光友は乾の方が仏前に供へた饅頭をいつもくすねておつてな、その罪滅ぼしに社寺の修復、創建を・・・違ふ!違ふ!何を言はせる、お前さんは!全く、何も判つておらんやうだの、お前さんは。
なに、自分の子供時代と一緒にしてしまつた、許してくれ、とな?さうか、それならよい。光友はお前さんほど食いしん坊ではなかつたからの、ヒヒ。
なになに?光友公が何故神仏を大事にしたか、それは幾らか判つたやうな氣がするが、澤山の社寺を修復したり建てたりしたら、お金が掛かつただらう、とな?

玉林寺(東海市横須賀町二ノ割)
うむ、その通り。それはなかなかの大事業でな、藩が費したお金も半端ではなかつた。それと同時に、木曽川などの治水工事に多大な金を要したうへ、横須賀に別邸を建てたり、火事で焼失した江戸市ケ谷の藩邸を建て直したりしたから、藩の台所は一時火の車になる始末であつたわ。
なに?やつぱりバカ殿様ではないかと?経済観念が全く無いではないか、とな?
そんなことはない。藩の財政を逼迫させたのは光友らしからぬミスと言へるが、澤山の金を無闇やたらに浪費した訳ではなく、その使い途にはそれぞれ何かしら事情や訳があつたから、それも或る意味仕方の無かつたことと言へる。社寺の創建、修復にしても、尾張の国を復興させるには、その民衆の心の拠り処からまづしつかり建て直さなければならない、といふ考へがあつてのこと。人々に仕事を与へて、その活氣を取り戻すやうな環境を作つてやらうといふ意図もあつたしな。とにかく、いろいろと失敗もあつたが、光友の頭の中にはそのやうに民心の安定や国の繁栄を図らうといふ考へが常にあつたと、さう言つてもよいであらう。
それに、これは見過ごせぬことで、お前さんに是非知つてもらひたいのだが、光友には、巨額の費用が掛かる厄介な問題が別にあつたといふことだわ。それは何かといふと、うむ、それは、外でもない、幕府が定めた参勤交代の制度であつた。それによつて、外様大名の財力が如何に弱められたか、お前さんも学校で習つて知つとると思ふが、尾張徳川家もその例外ではなかつた。義直公の時代はそれほどでもなかつたのだが、光友の時代になると、参府する機会がぐんと増えて、それがボクシングのボデイブローのやうに藩の財政をじわじわと苦しめるやうになつた。光友がその子の出雲少将※1、摂津少将※2や家老たちをぞろぞろ引き連れて江戸に上ると、それと交代して、世子の綱誠(つななり)※3が江戸を発ち、これも又、家老たちをぞろぞろ引き連れて名古屋に帰城するといふ具合で、光友と綱誠、この二人の行つたり來たりが毎年繰り返されたから、それも当然であつた。したがつて、藩の財政が窮乏したのは、光友が澤山の社寺を創建、修復した所為だと、光友一人を責める訳にはいかんだらう」

小僧注

※1

松平出雲守義昌。光友の第一子であるが庶子であるが故に第三子に列す。後に奥州梁川藩三万石を与へられる。

※2 松平摂津守義行。母は正室千代姫(徳川家光の娘)で第二子に列す。後に美濃高須藩三万石の祖となる。
※3 義昌の後に生まれるが正室千代姫の子である故に第一子に列す。

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