※1
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その頃はまだ参勤交代の制度が確立してゐなかつたので正室や世子は名古屋で生活してゐた。春姫と光友が正式に江戸へ上がつたのは寛永10年(1633)である。
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※2
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春姫(1603−1637)は当時和歌山藩主浅野幸長の娘である。
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※3
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大名の周辺には正室、側室、妾(御殿女中の中で殿様のお手が附いた者)といふ女性たちが居たが、その中でも妾は澤山居たと考へられる。乾の方も最初はその一人だつた。妾は殿様の子供が生まれても直ぐに側室といふ地位が与へられる訳ではなく、その地位は女中のままだつた(生まれた子供は別の女性たちによつて大事に育てられた)。その子が世子と決定したり、殿様の寵愛が特別に深いと、その妾は女中附きの部屋が与へられて側室に昇格した。乾の方(於尉の方=おぢやうのかた、とも云ふ)はその部屋が乾(北西)の方角にあつたからさう呼ばれたのだらう。義直公には光友以外に男子が無かつたのだが、乾の方の素性を考へると、光友の世子決定までのプロセスには大奥を巻き込んだ何らかの勢力争ひがあつたのではないだらうか。
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