尾張の山車まつりへ [横須賀まつり訪問記]−[46]


〜第47回〜
小僧が元浜線で出くはした怪しい老人が語るのは徳川光友の生母歓喜院乾の方の話。
「なに?光友の話をもつと訊きたい、とな?――おつと、さうであつた。
話が又脇道に逸れたやうだが、今まで光友のことを話しておつたのだつた。光友が社寺の創建、修復にどれだけ力を注いだか話しておつたな、うんうん。したがつて、そのやうに神仏を崇拝する氣持ちが一方ではなかつたことからも、光友の、その清廉な人柄、十分に修養を積んだ立派な人柄といふものが判らうて、なう、お前さん?
なに?日頃悪いことばかりしてゐたから神仏の罰を蒙らないやうにその償ひをしたのではないか、とな?
ヒヒ、お前さんのことだからさう言ふかもしれぬと思つたわ。何故か知らんが、ワシの言ふことに逆らふのがよつぽど面白いと見えるの、お前さんは。
なに?分かつた?一体何が分かつたと言ふのかな?
ふむふむ、光友がそんなに神仏を大事にしたのは母親の影響が大きいのではないだらうか、とな?
うむ、察しがよいの。お前さんの言ふ通り、光友の生母である歓喜院乾の方、この人の信心深い性格が光友に大きな影響を与へたと言つてもよいであらう。
うむ、乾の方はな、武家の女性としては珍しく、神仏を崇拝する念が極めて強いお方であつた。暇を見附けては、いろいろな社寺に足を運ばうとされたし、毎日仏前でお経を唱へることを欠かさなかつた。時には寝食を忘れて、いつまでも仏の前に座り続けておることもあつた、そのやうなお方であつた。したがつて、光友がその影響を受けたのも無理は無かつた、さういふ訳だわ。
何故、乾の方は神仏に対する信仰心がそのやうに篤かつたのかといふと、うむ、それには或る出來事が関係しておるとワシは推測しておる。その出來事といふのはかういふことだわ。
春日神社といふのは、奈良の春日大社の分社で全国に澤山あるが、名古屋の大須にも一つあつてな、ここは乾の方が光友を産む時にその安産を祈つた神社の一つであつたが、その後、乾の方が病氣になつた時に、ここの神木の椎の木の枝を採つて祀つたところ、その病氣が全快したといふことがあつた。
うむ、その病氣といふのは、乳に出來た腫れ物といふ言ひ傳へもあるやうだが、それは間違ひで、性質(たち)の悪い風邪であつたがの。
それはともかく、そのことがあつてからといふもの、元々強かつた乾の方の神仏に対する思ひ入れは益々強くなり、徒ならぬものになつた、さういふ訳だわ。

先程お前さんは大森寺のことをなんとかネツトで調べたと言つておつたが、乾の方はどうかな、よく御存知かな?
さうか。詳しくは知らんか。乾の方はな、春日井大森村の貧しい農家の娘から藩祖義直公の側室になり、御三家筆頭の殿様の生母となつた、他の人から見ればまるでシンデレラのやうなお方だが、その生涯はあまり幸福とは言へなかつた。むしろ、辛酸を舐めることの多い不幸な生涯であつた、とさう言つてもよいであらう。
なに?どういふことか詳しく訊きたい?さうか。では、それをお話しすることにしよう。
どういふ訳で乾の方は農民の娘から尾張徳川家の殿様の側室になつたかといふと、それは勿論義直公の眼に留まり、大いに氣に入られたといふことだが、その経緯(いきさつ)はかういふことであつた。

義直公は若い頃鷹狩りに熱中しておつてな、その狩場である春日井原には頻繁に出掛けたのだが、その鷹狩りの帰りに激しい夕立に遭い大森村で休憩したことがあつた。
うむ、乾の方が住んでおつた大森村だわ。だが、なにしろ、その義直公の休憩は急なことでな、村はてんやわんやの大騒動、乾の方もその接待に駆り出される破目になつた。
義直公が休まれた庄屋の家で村の者たちと一緒に忙しなく働いておつたといふ訳だわ。
するとその時、乾の方は殿様に附き随ふ足軽たちにお湯を持つて行くやうに命じられた。そこで、乾の方は女の中でも並外れて力があるはうであつたから、お湯がたつぷり入つておる大きな桶を二つ担いで、その足軽たちのたむろしておる土間に向かつたのであつた。
だが、乾の方は、勝手が分からず、中庭をうろうろしておる間に、何を間違つたのか、義直公が休んでおる広間に出てしまつたのであつた。
うむ、それは事件であつた。いきなり農民の娘が殿様の前に出たといふことだからの、それは大いなる失態であつたと言はざるを得まい。
義直公は、雨が止んだこともあつて、その時縁側に座つて中庭を眺めておつたのだが、突然みすぼらしい身なりをした娘が桶を担いで眼の前に現れたから驚いた。
飲まうとしておつたお茶を思はず吹き出してしまつた。すると、それを見た乾の方は事の重大さに氣が附いたのか、すつかり動揺してしまひ、肩から棒が外れ、桶を落としてしまつた。
で、その桶に入つておつたお湯が、こともあらうに、義直公の足下まで飛んでしまつた。ごく少量ではあつたが、その飛沫が義直公の足に掛かつたから、さあ大変。直ぐに義直公の側近から『無礼者!』『たわけ者!』と怒鳴る声が一斉に上がつた。
その時、乾の方の心臓がどんなに縮み上がつたか、お前さんにもお分かりにならう。
可哀想に、乾の方は直ぐ様倒れるやうにして地面に突つ伏すと、そのままブルブル震へておつた。
うむ、乾の方はその時自分の死を覚悟しておつたに違ひない。自分の犯した過ちがどのやうなものか知つておつたからの。大名である殿様、それも御三家筆頭の殿様の面前に農民の娘がしやしやり出て、過ちとは言へ、その殿様にお湯を掛けるなどといふことはあつてはならないことであつた。普通ならその場で打ち首だわな。乾の方が直ぐに自分の首が飛ぶのを覚悟したのも無理は無かつた。
ところがである、その事件は意外な結末となつて、さうはならんかつた。乾の方は打ち首にならなかつた。では、どうなつたかといふと。
うむ、お前さんにもその話の続きは凡そお分かりになるであらう?
さう、その通り、義直公は怒つて乾の方を手討ちにするどころか、反対に、乾の方をこの上も無く氣に入つてしまつたといふ訳だわ。
なに?どういふ訳で氣に入つた、とお訊きか?うむ、乾の方の器量は優れておつたが、飛び抜けてよいといふ程ではなかつたから、要するに、乾の方は義直公の好みのタイプであつたといふことであらう。
それに、義直公は、それまで殿様が逢つた女たちの顔には無かつた表情を乾の方の顔に発見し、それに魅せられてしまつたのだつた。
それが乾の方を氣に入つた最も大きな理由であつたのかもしれん。どういふことかといふと、うむ、それはかういふことだわ・・・」

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