本町組前棚彫刻 |
小僧は何処と無く怪しい老人と元浜線を歩きながら、その老人の語る『失はれた昔の風景』の話に耳を傾けてゐた。
「ふうーん、そんなものだらうか。お爺さんの言はんとするところは分かるが、お爺さんのその話には少し極端なところがあるやうな氣もしないではない。『自然』が虐待されることの無かつた時代の風景、それがどんなに素晴らしいものだつたかといふことはなんとなく分かるが、しかし、『人間は文明の発生以來自然を破壊する宿命を負つてゐた』と誰か偉い人が言つてゐたからなあ。それが失はれたのは残念だが、人間がこの世に存在する以上、それも致し方無いのではないか。お爺さん、お爺さんは随分と大昔の風景に拘(こだは)りがあるやうだが、それぢやあ、その頃、この元浜はどうなつてゐたのだらう。お爺さんは先程天女たちがどうのかうのと言つてゐたが、それはその頃の元浜のことを言つてゐたのか?」
「うむ、遠い遠い昔の話、さつきも言つたやうにこの横須賀に町方が出來る以前の話だわ、それは。どうしてそれを知つとると言はつしやるか?いやいや、勿論この眼で見たわけではない。ただ想像しただけのことだわ。が、そこにそのやうな美しい景色が見られたのは間違ひない。お前さんはこの近くに鳴海といふ処があるのをご存知か?さうさう、江戸時代に東海道五十三次の宿場町の一つに数へられた処だわ。隣の有松と同じやうに絞り染めがその町の名物として今でも知られとる。ここにも昔から傳はる山車祭りが、うむ、なかなか趣のある山車祭りが残つておるのだが、それはよいとして、そこの海岸はその昔鳴海潟と言はれて、万葉の時代から江戸時代にかけて多くの和歌や俳句などに詠はれた、そのやうな景色に優れた名所だつた。ふむ、だつたがと過去形で語らなければならないとこ
圓通車水引幕は千鳥が飛ぶ |
ろが残念だが、そこは千鳥の澤山群れ遊ぶ美しい干潟だつたといふ話。この辺りにもそのやうな遠浅の、うむ、鳴海潟にも負けぬ美しい干潟が広がつておつたに違ひない。ワシは戦前のこの辺りをよおく知つとるが、そこにはその面影がまだ残つておつた。だから、ワシにはそれがなんとなく想像出來る。」
「なに?それは具体的にどのやうなものだつたかと言はつしやるか?うむ、ワシの頭の中に浮かぶのはこのやうな風景だわ。鰯雲が幾つか棚引いとるほかには何も無い、見とるとそのまま体ごと宙の彼方に吸い込まれて行くやうな蒼い空。その下にドーンと横たはる、その雄大さと神秘性には圧倒されるほかはない水平線遥かな紺碧の海。太陽の光をいつぱいに浴びて砂の一粒一粒が銀砂子のやうにキラキラ輝いとる、海岸に沿つて何処までも続く砂浜。それは、今日見るやうな流れて來たゴミがゴロゴロしとる砂浜ではなく、枯山水の庭園にも匹敵する美しさと静けさをもつた『自然』が造り出した砂の庭園。そこにあたかも優しく話し掛けるかのやうに打ち寄せる男浪女浪。浪が引いた処には何処から流れ着いたのか椰子の実がひとつ。名も〜知ら〜ぬ〜遠き〜島より〜、オホン、失礼。沖には鰯の群れを見附けて集まる海鳥たち。砂浜の奥には漁に出掛けた夫たちを待ちながら魚や海藻を手際よく干しとる女たち。その傍らには古くなつて捨てられた小舟とその残骸の上で戯れる小さな蟹たち。聞こえて來るのは、悠久の音楽とも言ふべき浪のざわめき、潮風が運んで來る海鳥の鳴声、そして女たちの陽氣な笑ひ声や唄声。それだけだわ。そのやうな、なんとも長閑な世界、ダリの絵画ではないが、時間といふ概念が存在しないやうな光景がここ元浜には見られたに違ひない。少々卑しい話で恐縮だが、当時は海の幸も豊富で、うむ、色々と美味しい物を食べることが出來たのではないかな。ワシはハゼ釣りが好きなんだが、その頃だつたら、そりや、まう、誰にも邪魔されず、思ふ存分ハゼ釣りが楽しめたであらうし、今のやうなCBC・・・ぢやなかつた、PCBに汚染されたやうな不味いハゼではなく、潮の香りいつぱいの美味しいハゼを澤山味はうことが出來たに違ひない、ヒヒ。お前さん、ハゼを食べたことがおありかな?」
現在の元浜より町方方面を望む |
「さうか、ないか。ワシはハゼに目が無くてな、ヒヒ。ハゼはな、煮ても焼いても、天ぷらにしても旨いが、刺身で食べる、これがいちばん旨いんだわ。それを肴に・・・おつとつと、こりや、ちと余計なことを言つて、また話を逸らしてしまつたやうだな。うむ、うん?なんでハゼの話になつたのかな?さうさう、さうであつた、この辺りは昔美しい干潟だつたといふ話だつた、うんうん。そして、そこに広がる海の景色、これまた素晴らしい眺めだつたらう。うむ、で、それに感動したのが光友よ。さう、尾張の殿様の光友だわ。塩湯治、つまり海水浴に來た光友はいつぺんでここが氣に入つてしまつた。そこで、ここに別荘を造らうといふことになつた。それで出來たのが横須賀御殿、なに?よく知つとると言はつしやるか、その辺のことは。さうかさうか、それは偉い。この小さな町横須賀の歴史を御存知とは。お前さん、何処から來なさつた?おお、さうであつた。東京からわざわざここへ足を運ばれたといふことだつたな。それはそれは、ご苦労な。なに、さうか、山車祭りがお好きとな。うんうん、分かる分かる。ワシも山車が大好きでな、さう、この世の何よりもと言つてもよいくらいだわ。特に名古屋型の山車が曳かれると聞くと、そりや、まう、居ても立つてもおられんでな。だから、普段は名古屋に住んどるこのワシだが、この横須賀のまつりには毎年必ずかうやつて足を運んどる、ヒヒ。うん?はて?話がまた横道に逸れたやうぢやが、ワシは今まで何を話しておつたのかな?」 |
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