小僧は煙突童子の案内で陽がすつかり西に傾いて暮色に覆はれ始めた戸山ケ原へとやつて來た。
「ここが戸山ケ原か。新宿の近くにこのやうな処があつたとは。人間の手の全く加へられてゐない、草が伸び放題の広い原つぱではないか。向かふの方には鬱蒼とした森が見えるし、東京の真中とは思へないほどだな。昔の武蔵野を思はせるやうな処だが、なるほど、狛犬が話してゐた戸山荘の面影は無いやうだな。狛犬の話が本当だとすると、例の人体標本とやらは一体どの辺に埋められてゐるのだらう」
小僧たちは丈の長い雑草が風に揺れる広い野原から薄暗いナラやクヌギの林を抜け、整地された広い公園へ出た。公園の外れに島崎雪子の住む集合住宅があるといふ。公園には小さな人工の池や花壇のほかにブランコや幾つかのベンチが見えたが、人の影は全く無かつた。
「幾分暗くはなつたが、人が全く居ないではないか。東京にある公園とは思へんほど寂しい光景だな。それはさうと、キヨンシーはどうした?姿を現さぬではないか。この眼で確かめたいと思つてゐたが」
「今日は公休を取つておるのかもしれん」
「冗談を言つてる場合ではない。さうだ、例の箱根山は何処にある?光友公の戸山荘を偲ぶ唯一の物といふからには、一度見ておきたい」
墓場のやうな静寂が占める夕暮れ時の公園の中を、小僧は煙突童子の後に附いて注意深く歩いて行つた。二人が進むにつれ、周りの樹木は次第に黒々とした影を帯び、不氣味な闇が二人を包み始めた。樹木の陰に潜むのはキヨンシーか悪霊か、はたまた何かの亡霊か、得体の知れない何かがじつとこちらを窺つてゐる、そのやうな氣味の悪さを感じないではゐられない小僧だつた。
「小僧よ、陽が落ちるやうだし、箱根山は今度にして引き返さないか?」
「怖氣づいたか、煙突童子。キヨンシーにも是非逢つてみたい。もう少し附き合へ」
二人はまもなく起伏に富んだ草深い丘陵地帯に出た。が、辺りはすつかり暗くなつてゐた。
陽が落ちた空には、いつのまにか墨で塗り潰したやうな厚い雲が広がつてゐて、僅かに出來た雲の切れ目に仄白い光がゆらゆらと月の在りかを示してゐた。ギーギー、ギーギーと何処かで薄氣味の悪い鳥の鳴声が聞こえる。突然、幽霊の吐息のやうなネバネバとした湿り氣のある生臭い風が何処からともなく吹いて來て、小僧の頬を舐め始めた。小僧はブルツと身を震わせた。
「ほら、あそこに見える小高い山、あれが箱根山だ」
煙突童子の指差す方を見ると、なるほど、茶碗を伏せたやうな山影が、暗い空の下、新宿の街灯りにぼんやりと浮かんでゐるのが見えた。
と、突然、小僧たちの背後でバサバサといふ大きな物音がした。振り向くと、巨大な黒い影が草叢からザザツと跳び出して、空に向かつてビユンと飛んで行くではないか。空中で大きな翼のやうなものを広げたところを見ると鳥のやうではある。その巨大な鳥はバツサバツサと大きな翼を揺らしながらクアークアーと鳴いて小僧たちの頭上を飛んで行つた。
「あ、あれは何だ!煙突童子よ」
「暗くてよく分からんかつたが、真つ黒な体とあの独特のくちばし、どうも烏のやうだつたな。それにしてもでかい」
「うむ、オイラにもさう見えたが、あんな大きな烏は見たことがない!とにかく怪しい鳥だ。煙突童子よ、追ひかけよう!」
小僧たちはその巨大な怪鳥のシルエツトを必死に追ひかけたが、なにぶんにも暗い空に黒い影である、すぐに見失つてしまつた。
「何をぐずぐずしてゐる、煙突童子よ。走るのが遅いぞ」
「ハーハー、待つてくれ、オレはサツクスを担いでおるのだ。それに前がよく見えん」
「ふうー、やはり鳥の速さには勝てん。しかし、実に怪しい鳥だ。何か悪いことが起こらなければよいが。うん?これは何だ。こんな処に人家があるが」
小僧たちはいつのまにか一軒の建物の前に辿り着いてゐた。窓から漏れる明かりが無かつたら小僧はそれを見過ごしてゐたかもしれない。辺りはすつかり闇の中に埋もれてゐた。
「うん、教会の建物だらう、きつと。以前この辺りにぽつんとある古い教会を見たことがある。しかし、すつかり寂れ果てた廃墟だつた筈だが。変だな、明かりが点いておるとは」 |
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